30年越し! 欧州遠征記
【オリエンティア Advent Calendar 2023 19日目】
佐々木 順(渋谷で走る会、東京90)
1. 初めまして、お久しぶり
会社であった、信じられないようなホントの話をしますね。
「佐々木さん、初めまして。田邉(*1)です。オリエンテーリングされていたってことですが、大会とか出られてたんですか?」
「学生時代から、子供が生まれるくらいまではやってました。東大OLKで、カッシー(*2)のひとつ下です。田邉さんは東北大学だったんですか?それなら松澤(*3)、入江(*4)のひとつ上と言ったほうが早いですかね」
「えーっ!松澤さん、入江さんって言ったら伝説の人じゃないですか! そのへんだと、寺嶋貴美江(*5)さんと同期ですか?」
「きみちゃんでしょ? きみちゃんとヒディ(*6)に誘われたんで、今年のCC7は、同期チーム(**)で出ることにした。会場で会えるよね?」
「まじっすかw。むちゃくちゃ話が合うじゃないですか〜!」
東北の元エースで、今年は市民マラソングランドスラム。オリエンテーリングの枠を越えて一線を走り続ける男と、インカレで一度も選手権を走ってない上、20年もフォレストから離れていた元日本学連幹事長。交わる点など無かったはずが、オリエンとは全く関係ないランニングサークルでの初対面から、一緒に走るメンバが引くほどにw喋りまくった末、最も身近な同志になりました。年の差、じつに一回り半。
こちとら「片付くものも片付いたので、そろそろ復帰かな?」と一念発起してCC7を申し込んだところ。まさに渡りに舟。てか、舟どころの騒ぎじゃない。モーターボートが来たw。でもなんか、ぞくぞくしない?
先日、その田邉くんに横浜OLCの新横浜公園練に誘われたんですよ。
以下、走りながらの会話。
「学生時代に海外に行かれたことはありますか?」
「行ったよ〜。3年のときに、オーリンゲンとか」
「オーリンゲンって、どこの大会でしたっけ?」
話を聞いていると、オリエンティアが欧州遠征することが難しくなっている様子。今となっては珍しい話もあるようなので、今宵はこれを肴にしましょうか。バブルの残り香ただよう90年代前半、今の学生オリエンティアの親世代が、明日を夢見ていた頃にお連れします。
テイストは、ときの東大OLKの会報「東大一直進」「Rough & Fine」あるいは「関東学連だより」。BGMは、この旅行の直前に発売された槇原敬之「君は僕の宝物」に。旅行中、ヘビロテだったの。カセットで。
2. 二十歳の決心
1992年、年明け。東大OLKの追い出しコンパは「土曜昼にフォーマル→夜に新宿でオール→日曜昼にどっかで練習会→夜に池袋でオール→月曜朝解散」という、今では信じられないスケジュールでした。どこかは忘れましたが、遠征の話をしていたのだから、真夜中でないことは確かでしょう。当時二十歳の私もその会話にいて、引き込まれたのです。
「そうだよ。ヨーロッパ、行ってみるといい。人生変わるよ」
前年、カッシーをはじめ、多くの先輩が遠征していたこともあり、行ってみると面白いんだろうなという気分があったけど、実際に背中を押されたのは、このタイミングだったように思います。
決めてからは情報集め。ネットの無い時代、頼りはガイドブックと自分の足、そして仲間の口コミ。情報を共有する一番の手段は、サークルの会報でした。当時の学生オリエンティアは(今も?)文章を書くのが好きで、印刷スキルに長け、毎月数十ページの会報を作っていたのです。
旅のファイルには、こんな記事が残っていました。題して「二流オリエンティアのためのヨーロッパ遠征講座」。タイトルから、非エリートでも続々とオリエンテーリングの海外遠征をしていたことが伺えます。
決心してからというもの、この記事をバイブルにして準備しました。遠征の三大要素は、航空券、大会エントリ、そしてお金です。
パスポートを前提とすれば、最初に決めるのは航空券。地方都市を訪れるので、一般のパック旅行は使えないことに注意。格安航空券を駆使し、旅行会社と相談してルートを作ります。社会人の多数派は日系直行便。20万円台半ばだったでしょうか。学生は費用を優先で東南アジア経由。時間もまる1日多くかかります。私はタイ航空で13万だったけど、予約直後にタイ国内で政変。飛ばなくなるリスクにおびえたものです。
つぎに大会エントリ。スウェーデンのO-Ringenは外せません。代表になった人はJWOC(この年はフィンランド)から、もっと走りたいやつはノルウェーのO-Festivalenなど、他の大会を組み合わせます。代表者が取りまとめて英文でエントリを依頼して送金、acceptが来ればエントリ成立。チーム名は関東学連(Kanto Student OLF)としました。O-Ringenは誰かが代行してくれましたが、O-Festivalenは自分がやりました。こんな文書が手元に残っていました。懐かしい名前がズラリ。しかも16人。
お金は5000円×滞在日数を目安に、トラベラーズチェックで準備しました。サイン欄がふたつあり、購入時に一方にサイン。現地で他方にサインし、パスポートと一緒に提出して換金します。訪問国が多く通貨もバラバラのため、日本円で作成。旅行総額は飛行機+現地費用+装備で四十数万で、バイトの貯金と親からの前借りでまかないました。宿は一泊目のみ日本から予約し、あとは当日現地で直接交渉がスタンダード。
「行ってらっしゃい!」
今だから言える話ですが、とある女性からの手紙を持って。海外旅行どころか、飛行機もこれが初体験でした。旅程は以下のとおり。
・7/15成田発→バンコク着。同日深夜発→7/16朝ストックホルム着。
・大会参加は 7/20〜24 O-Ringen、28〜8/2 O-Festivalen。
・8/10フランクフルト発→翌日バンコク着。1泊後出発→8/12成田着。
3. 高揚のスウェーデン
この年のO-Ringenは、ストックホルム近郊のセーデルテリエ周辺でした。大会宿舎は現地の軍施設(だと思ったが、いま見ると倉庫みたい)。日本人参加者は宿舎でコミュニティを作りました。朝は共同購入した食事をいただき、昼はレース。午後は洗濯などして、明るく長い夜を過ごします。22時くらいまで明るかったのではないでしょうか。
会場では、椅子付きのザックが大活躍。地べた文化の日本人は気にせずにシート敷いて座ってたけど。現地を語る上で避けられないのが、トイレとシャワー! トイレは野っ原を囲んだだけのところに溝と座るところを作っただけのもので、内部で皆様のいたす様子が丸見え。シャワーも推して知るべし。女性陣はこれを嫌がり、宿舎で済ませるよう我慢してました。「ショックトイレ・ショックシャワー」は日本チームの流行語に。
地図は「こんな白くてフラットな林がずっと続くのか!」に尽きます。岩やこぶが多すぎて特徴物として認識するのが難しく、そんなところにコントロール置かれたら死ぬ。林がフラットということは、大雑把な地形認識では走れないということで、地図読みの解像度の低さを思い知らされます。それでも、奇跡的に全日完走できたんです。ホントに、それだけが、しばらくの心のより所でした。
現地でしか手に入らないオリエンテーリング用品も多かったですね。シルバのOシューズが欲しかったけど、足型が合わなくて断念。逆に日本製で人気があったのがカシオのラップ時計。30ラップも取れる時計は当時のヨーロッパには無かったようで、中にはまとめて持ち出して現地でひと稼ぎしようとした日本人もいたとか。
4. 辛抱のノルウェー、デンマーク
O-Ringenが終わった日の夜、ストックホルムから夜行列車でオスロへ向かいます。フィヨルド観光のためにベルゲン往復後、会場のあるシーエンへ。泊まり場所として、学校の教室をあてがわれました。いよいよ持参のシュラフ出動。荷物を減らすためにシートを持ってこなかったので、硬い床にそのまま寝ることに。このときのツラさは忘れられません。
こちらも5日間レース。ただしこちらは3日間+1日休み+1日レース+リレーと、若干余裕があります。フラットな林がどこまでも続くスウェーデンとは対照的に、ノルウェイの森はどこまでもキツく、シャレオツな世界とは無縁でした。誰だ、こんなタイトルでヒット小説を書いたやつは。
最終日の終了後、そのままオスロに向かうと夜になってしまいます。まだオスロ市内観光をしていなかったので、主催者に頼み込んで、もう1泊使わせてもらいました。翌朝場所を引き払い、オスロ観光ののち、夜行列車でコペンハーゲンへ南下。ノルウェー滞在は10日に及びました。
コペンハーゲンでは同志と人魚姫の像を訪ねて「やっぱりがっかり観光地だな」と言い合い、買い物をしている間に再び夜に。またしても夜行列車でいよいよ大陸、ドイツに渡ります。今じゃ考えられない。
5. 彷徨のドイツ
若いカラダとは言え、疲れは溜まっていたようです。ベルリン行きのこの列車は、途中で車両ごと連絡船に載せられる有名な列車(今は廃止)。それを見届けたかったのですが、記憶も無いまま、早朝のベルリン到着。駅のトイレはチップ制。入ろうと思っても、早朝ですから銀行は閉まったまま。ドイツマルクをこの時点で持っていないので、清掃員に止められます。仕方なく、わからないふりをして突破せざるを得ませんでした。
ドイツでは観光のみ。レースが終わったらゆっくり羽根を伸ばして、と思いきや、実際は逆でしたね。すでに同志とも別れて、ひとりぼっち。現地の宿はその日に探すと書きましたが、都会のベルリンでは宿を探すのもひと苦労でした。ユースホステルが取れず、同じ状況にあった日本人学生風のニーチャンと、ツインの部屋を取ったこともあり。
ベルリンの壁崩壊から3年足らず。壁は無くなったとは言え、まだ東西色分けのあとが残る町並み。ベルリンこそ結構楽しめましたが、以後は目的を見失ったように彷徨するのみでした。
途中いくつかの街に立ち寄ったのち、帰国便出発の2日前に最終地のフランクフルトへ。とはいえ、気力萎え気味。ゲーテの家など市内観光をする気も起きず、近所の公園を散歩したり、ベンチからしばらく川の流れを見つめたり。ホテルのふかふかすぎるベッドにも嫌気がさし、最後の夜はカーペットの床に毛布を敷いて寝たりなど。
真夏なのに、クリスマスの曲が、脳内リフレイン。
この時点で行程は一ヶ月近く。正直、そろそろ帰りたいな。
6. 安堵の帰国
憧れのヨーロッパでしたが、日程の前半にハイライトを持ってきたせいか、最後はやっとの思いで脱出。タイ航空のCAにすら同郷のよしみを感じ、バンコクで一泊後に帰路へ。空港のシステムトラブルで相当待たされたけど、安斎・入江らJWOC部隊と合流できたので退屈しませんでした。
よほど格好が怪しかったのか、成田では全員荷物オープン。最終到着だったようで、税関がガラガラだったことを覚えてます。東京駅で解散後、自宅到着は、日付が変わっていたのでした。
行ってらっしゃい、と手紙をくれたくだんの女性とは、残念ながら、ほどなく疎遠になりました。答えが出せたかどうかはわからないけど、ひとり息子はこの冬、冒頭の私と同じ年齢になります。
時代はめぐる。
🎅🎅🎅
冒頭の「欧州遠征が人生を変えるか?」ですが、行った人によるでしょうね。自分の場合、今でも付き合いのある同志との関係を、ひいてはこんなところで語る場を作らせてくれた点では、やっぱり変わったと言えるんじゃないかな(笑)。気持ちひとつ。
速い遅いは無問題! この世界にいるからこそ、ここでしか見られないものを。コロナ禍も落ち着いたいま、広い世界を見て来ようと思う若きオリエンティアが、これを読んでひとりでも出てくることを願っています。
🎄🎄🎄
Special Thanks
*1 田邉拓也、東北08、横浜OLC/入間市OLC。
*2 鹿島田浩二、桐朋→東京89、渋谷で走る会。
*3 松澤俊行、東北91、松塾。
*4 入江崇、東北91、サン・スーシ。JWOC92代表。
*5 寺嶋(高木)貴美江、京都橘女子90、ES関東C。
*6 山本英勝、東京90、渋谷で走る会。
*7 安斎秀樹、東北90、あひるの会としてCC7参加。JWOC92代表。
(敬称略、数字は入学年。所属は今年の全日本によります。)
★ おまけ ★
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?