曦宗達日記(2020年3月後半)

二〇二〇年三月十七日

思考のスパイラル。

家での手伝いや京都でのバイト。

就活を切り捨てる。やりたいことやりたくないことをハッキリさせます。

やりたいこと

小説創作、詩、批評、読書、旅行、海外渡航、英語・英会話(TOEICは微妙)、自己プロデュース、小説の売り込み、事業展開、イラスト、仏教・キリスト教・神話研究、

やりたくないこと

バイト、就活、就職のこと、簿記などの秀才がやること、

二〇二〇年三月十八日

一回無教養の国日本から離れる。

しんどいことはやりたくない。小説創作は大変。


二〇二〇年三月二十日

なぜバイトをやってしまったのか。

なぜ計画はうまく実行できなかったか。

失敗してしまった。

僕は恐怖、ストレス、悩みに遭わないと本気を出せないのか。振り返ることすらやらなくなるのか。それともしんどいこと、長期的なことが辛いのか。それとも一時間かけてから休むことすら苦労するのか。

もういい。今日は書かない。と決めると書きたい気持ちも現れる。

物語を書くかつその物語が予言書となって僕が死んだ後も受け継がれて欲しい。古典としても。問題は、ビジネスの中に取り込むという下心がありながらどうやって小説読書と向き合うか。


前に僕の喋りや雰囲気、オーラが独特で魅了されると、母親か誰かが言っていたような気がするが・・・。これを利用しない手はないだろうか。

仲間があっても、最終的に向上する行為は僕ひとりでなんとかしなければならない。弓道やってた中高時代、同学園や先輩後輩からいろんな意見をもらい、大会や審査への向上のためのチャンスはいっぱいあったのに真剣にできなかった。爪が甘い部分が多くあった。やっぱりひとりであっても仲間はいても大して変わらない。自分のやる気次第だな。

二〇二〇年三月二十一日

なぜ小説を書こうとすると他への好奇心が削ぎ落とされてしまうのだろう。疲れるからなのか。それとも一つのことに拘らないと落ち着かないのか。

二〇二〇年三月二十二日

批評をやろうとすると「小説を書く価値もなくなる。批評も物語。」と思うようになるが、逆に小説を書こうとなると「批評をやめる」となってこれらを繰り返す。脳みそが勝手に決めつけるせいでこんなことになりストレスがたまるんだ。畜生。

物語を書きたい思って小説を書いているが、やっぱり需要率が高いと言うイメージから小説を書くこともあるのかもしれない。そしてこの思い込みが僕の行動を阻害する。

小説の需要率も様々だ。大手の書店で取り上げられる小説は基本ミステリや有名純文学作家など激しく心の揺れ動くもの。それに対して幻想文学やSFなどはどうだろうか。場合によっては有名批評家の方がシュールな小説家よりも数字として売れることがあるのかもしれない。そうなってくるとよくわからなくなる。

二〇二〇年三月二十四日

「詩は訳わからん」と思われがちだが、比喩をいろいろ取り込んでいるから致し方がない。

だが、それこそ小説も同じように訳わからんではないか。物理的に流れがあって物語として完結しているから読みやすいのが小説。確かにわかる。だが。その隠された奥にあるメッセージを読み解くのは詩より難解なのかもしれない。ボードレールの詩と多和田葉子の『献灯使』は、前者は作者の現実と経験を理知的に詠んだもので実情を知ることができたかもしれない。後者

はと言うと、メッセージを一度虚構の世界に落とし込み、そこから一人一人の役割、時代背景を詳細にかつ複数の思考パターンから断定しなければならない。国文学者や批評家に問われる小説読解は殊更大変である。

二〇二〇年三月二十六日

長く時間をかけて詩歌を一つ作り上げるのが嫌ならば誰かの作品を参考、引用するしかない。

僕の脳味噌だけではちっぽけ↓他人の作品を利用するのが最も手っ取り早い。

おわりに

とまあ、ここまでいろいろな出来事や心情を記したのですが、これをどのように解釈するかは一人一人の読者に委ねます。

いずれにせよこれが書いた当初、本性であることに間違いはないと思います。月日が経つうちに当時記したことと現在では異なることもあります。記した当時の状況や感情をそのままぶつけたものですから、中には解釈が難しいこともあるかと思います。

これで終わったわけではありませんが、ここで一旦区切っておきましょう。

本能、良心に従え。これは計画があってもなくても優先事項ではないか。

もし何かの課題があったとしても、乗り気のない状態で叩き起こそうとするより、どっかに出かけて気づいて自らやる方がいい。

小説も書くのにアイデア等がなかったら、他作品の小説や学術書を読むべき。

ちなみに成仏2000聴いてから(聴きながら)これ読むのもアリかもしれません。

二〇二〇年三月三十日

白の空間を近年は短歌に取り込む。これはまず、笹井宏之賞に応募するため、二つにずっと部屋に引きこもっている間に白い部屋の短歌をいろいろ作ったから、三つに空間的感覚と白の世界のマッチングは良きと思ったからである。

僕は常に虚構を生きようとしている一見糞に見えるかもしれないが、虚構を生きるために文学やアートに触れているある意味一つの動機である。短歌と詩と批評で生きようとしている曦宗達にとって現実から目を背けることで何かしらのメリットがあるのかとも考える。

本来なら後を継ぐことが一番いいのだろう。だが、第三次世界大戦からの逃れ及び関西在住の夢は潰えてしまう。

二〇二〇年三月三十一日

短歌集、書物を読む理由。

1 これまでどんな短歌が作られたか分析し新たな短歌、人々が求めているものが何かを求めるため。

2 短歌賞の応募からこれまで作られた短歌を分析するため

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