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自分の言葉とはなにか、あるいはオープンソースなアルゴリズムとしての自己

自分の言葉で話していない人はすぐにわかる。自分が自分の言葉で話していない時も、すぐわかる。自分の口から出る言葉が、自分のものではないことなどは、サラリーマンにとってもはや常態ですらある。今日はそんな曖昧であやふやな自分という存在について考えたい。

アリストテレスは、気がついたらその人と同じ振る舞いをしたり、物言いをしたりする状態のことをミメーシスと呼んだ。宮台真司は従来当てはめられてきた模倣という訳語ではなく、これを感染と翻訳することを提唱している。


他者に感染する。他者が乗り移ったかのように話す。自分が主体的に誰かを模倣しているのではなく、文字通り誰かに乗っ取られるような体験。自分が同時に主体であり客体であるような感覚。それは國分功一郎の指摘の通り、中動態という存在様態として、古代ギリシャでは当然に認識されていた人間のありざまの一つである。


人間は、他者をインストールする事を通じて、自律的な存在になる。言語は、振る舞いは、文化は、社会は、教育は、すべて外からやってくる。社会化とは、つまるところ他者を受け入れる事であり、原始的な生命(ジョン=ロックの言うところのタブララサ)に他者の証を刻みつけていくプロセスである。

このようなことは、例えばソシュールが言語を社会的なものと捉える時、あるいはラカンが言語をファルスの代替物として捉えるとき、前提としている共通認識の地平にある。要するに、私たちは、ただ生まれてきたありのままで、自分であることはできない。他者の生きてきた歴史の上に立ち、他者の使ってきた言葉で主体化するのだ。プラトン=宮台の言葉を使うならば、他者に感染する事を通じて、私たちは自己を形成する。

鈴木建がなめらかな社会とその敵で喝破した通り、近代以降の、自由で自律的な主体として措定される我々の精神も、詰まるところあらゆる外部性に依存している一つの膜に過ぎない。本来、人間は開放系であり、情報ネットワークの網の目として存在している。だから、自分の言葉とか自分の考えなんてものは本質的には存在しないし、自分が本当に何をしたいのか、自分が何者であるのか、とかそういう『真の自分』を考えることに、思考としてさしたる意味はない。押井守が、映画にオリジナルのセリフは不要で、全て引用で良いと断言しているのも同じ考えのもとだと思料する。


斎藤環は日本社会の自己啓発本のブームを分析して、80-90年代の内なる真の自分探しというモードから、他者に受け入れられるキャラ探しという承認欲求へとモードが移り変わっている事を指摘している。日本人は30年かけて、ようやく自己という器が単に他者による承認を得るための道具に過ぎず、その内容にデコレーション以上の意味がない事を発見したのだ。そういう意味では、自分探しとか自己研究というのは、他者から承認を得るためにどんな自己を形作るべきか?と考えるプロセスに過ぎない。下らないとは思わないが、そういうものだと思っておかないと、空虚さは過度に人間を追い詰める。


実際のところ、誰かの考えとか思考と呼ばれているものは、それが曝露された後に事後的に当人の自律的な言葉として社会的に規定されているだけである。ごく当たり前の話だ。これまで摂取してきた情報を断片的につなぎ合わせて並び替えるアルゴリズムが人間の主体性の正体であり、それ以上でも以下でもない。僕たちはLLMである。

しかし、そのアルゴリズムにだけは、各人になんらかのオリジナリティが籠っていると、僕たちの社会は信じている。どんな情報が大切で、どんな情報はとるに足らないのか。何に感動するのか、何が許せないのか。結局のところそれだけが僕たちに残されたオリジナリティの所在だと信じている。それすらも無くしてしまったら、自律的な個人という神話の上に成り立つ民主主義はあっという間に崩壊してしまうからだ。

ジョナサン=ハイトは、人間の道徳感情さえも進化論的に獲得された形質であり、6種類のモジュール組み合わせにすぎないことを認知科学の知見を援用して喝破する。これを元に人間を分類するのは容易だが、僕は、いくら人間のパターンを単純化したところで、それらのモジュールをどのように選び取るのか、どの程度そこからの逸脱を許すのか、最後の最後何をえらぶのかということに関して、我々は間一髪で主体性を発揮する事を許されていると信じている。


僕はフェミニズムが好きだ。弱い人間へのやさしい眼差しを持っているからだ。僕はリベラルな価値観が好きだ。誰でも生きていいと言えない世の中では、自分はきっと生かしてもらえないと思うからだ。僕は学校が嫌いだ。大森靖子のワンダフルワールドエンドという曲に「ずっと早く卒業したくて生きてきたの」という一節がある。全くおなじ気持ちだ。いまだに学校の呪縛で魂が傷つき続けている。僕はシオランが好きだ。死にたいとばかり言っているくせにとても長生きしてしまって、恨みごとばかり書き連ねている弱さが好きだ。僕は、Xだ。という宣言をするたびに、そこに回収できない自分がいる。言葉は常に自分を捉え損ね続ける。こういう自己の無限の広がりをジャックデリダは差延と呼んだ。しかし、捉え損ねているじぶんは、じぶんだ。そのアルゴリズムは、紛れもないじぶんだ。


ミメーシスという概念を肯定的に引用する一方で、宮台真司は言葉の自動機械という概念をかなり昔から批判的に使っている。意味はこんな感じだ。

宮台は、承認欲求が満たされない社会的な不安を神経症的に拗らせた人間は、みな言葉の自動機械となると診断する。自分の考えだと思いこみながら、実際は誰かが作った言葉をbot的にリピートしているだけの哀れな存在。そこから脱却するためには、積極的に法の外に出る、利害関係の外に出る、言葉の外に出ることを推奨する。これは言い方を変えれば、要するに自分を包む他者の網の目から逃れよと命じているのだ。

僕の議論に引きつければ、言葉の自動機械にならないためにやるべきこととは、自己の所在としての情報の取捨選択アルゴリズムを、常に改編可能なものとして世界に晒し続ける勇気と機会を保ち続ける事だ。

東浩紀は近年、訂正可能性という概念を全面に出し人間社会の哲学を作ろうとしている。カール=シュミットは政治の本質を自他の境界を隔てる線を引くことに見出したが、これは友敵理論と呼ばれ現代に至るまで人間社会を分析する上でとてつもなく大きな影響力を持っている。東はこれを超克するために、友敵の図式を受け入れなが、その線の内側に入る資格を持っているのは誰か?を常に問い続けることに思考にこそ意味があると主張する。お前の仲間はこれで全部か?こいつはお前の敵なのか?本当に?と問い続けることで、線はあってもその線引き自体が常に訂正されることを倫理的な基盤とするのだ。


せっかくだから線を引き直すということの意味をわかりやすくしておこう。日本には、優生保護法という法律があった。特定の疾患を持つ人の断種を認める法律だ。よりよい人間社会を作る仲間に障害者は入れられないという理由で、生殖機能を同意なく奪われた人がたくさんいる。こんな非人道的な法律がいつまでまかり通っていたか、あなたは知っているか?
1996年、僕が生まれた実に1年後だ。


今日本社会にこの法律を強く支持する人はそう多くないと思う。人間は変わる。倫理も変わる。間違えるから、訂正するのだ。なんどもなんども、償えなくとも。そのような態度だけが、人を倫理的な存在たらしめる。

本論に戻ろう。僕は訂正可能性に人間主体の可能性を見出す東の議論に強く賛同している。牽強付会かもしれないが、こういう言い方をしたい。自分というアルゴリズムをオープンソースにすることで改編可能なものとして世界に提示することこそが、訂正可能性に身を晒すということだ。

あらゆる人々が僕のアルゴリズムにプルリクエストを投げてくる。僕はコミッターとして、その全てを吟味しながら、責任を持ってそれらをアクセプトしたり却下したりする。デスクトップに向き合いながら一つ一つのプルリクエストを吟味しているじぶんこそが、僕の考える自己の姿であり、自己の所在である。そのようにして絶えざる変革に晒されながら、常に暫定的なものとして発される情報の取捨選択とアウトプットこそが、ぼくにとっては唯一自分の意見と呼びうるものだ。


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