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不登校でも学校に行きたい

僕は保育士として働いている。
今日はそんな僕の中学生の時の話をしようと思う。

タイトル通り僕は不登校だった。
中学一年生の夏頃だった。僕は学校に行けなくなった。
イジメだった。
野球部だった僕は初めての上下関係の世界に困惑していた。
先輩から帽子を隠されたり、カバンの中に砂を入れられたりした。
同級生からは無視をされ休み時間やグループで僕は孤立していた。
そして僕は学校に行けなくなった。
先生は諦めずに何度も話を聞こうとしてくれたり、イジメの中心となっていた同級生との話の場を作ってくれた。
でもそれは僕にとってすごく辛い時間で辛い場所だった。
この時間が終わればまた、孤立した教室に戻るだけだったから。

僕が休み始めると先生はクラスの人達からの寄せ書きを集めて僕に渡してくれた。
その内容は今でも覚えている。一人一人からのメッセージがあったが、内容は全部「学校きなよ、待ってるよ」だった。
書く事がなくても書いてくれた人たちや、それを企画してくれた先生には感謝している。
だが一度しか見れなかった。心が痛かった。
僕はさらに学校に行きづらくなった。

母も父も姉も叔父も叔母も祖父も祖母もみんな僕の心配をしてくれていた。
そんな気持ちに応えられない自分が大っ嫌いだった。
家から逃げ出したかった。死にたかった。

でも、そんな時母が岐阜県のとある学校を見つけ、僕に勧めた。
そこは不登校の中高生を支援する学校だった。
西濃学園中学校・高等学校 というところだ。

その学園は寮生活を基本とした学校で岐阜県だけではなく、様々な都道府県から生徒が集まっていた。
通学制もあり、岐阜県に住む子は通学制で通っている子もいた。
僕は東京に住んでいたため寮を利用する事になる。

体験入学に行ってみると、在校生に中学一年生はおらず、僕のために中学一年生のクラスが作られた。
授業は一人で受け寮に戻っても話す人などいなかった。体験なのだから当然だ。
心が病んでいた僕はこんなふうに思った。
「僕は親に捨てられる。一人ぼっちになるんだ」
でも、僕は普通に学校で勉強したり部活をしたり、学校帰りに友だちと遊んだりしたかった。そんな普通のみんなと同じ学校生活が送りたいという気持ちもあった。
最後は自分でこの学園に入学する事を決めた。

初めは不安ばかりだった。初めての寮生活。食事以外は全部自分でこなす生活。
ここは僕にとって地獄のようだと思った。でもそんな時、同時期に入学した大阪出身の一つ学年が上の男の子と出会った。
僕はその子の事をこまっちゃんと呼ぶようになった。

こまっちゃんは明るかった。不登校の学校に来ているのが嘘のように明るい性格だった。
彼と同じ部屋になり、彼の勧めた漫画を読み彼の好きな音楽を聴き僕は次第に仲良くなっていった。

寮には他にも沢山の先輩がいた。
その中には僕の事を苦手とする人もいた。毎週水曜の夕食後に、お菓子やカップ麺をそれぞれ持ち寄るパーティー、いわゆる男子会が行われていたが僕は呼ばれなかった。
僕はここでもイジメられるんだと思ったが、その会が終わるとこまっちゃんが部屋に戻ってきて二人だけの男子会をした。とても楽しかった。
僕は次第に学園生活を楽しめるようになってきた。
こまっちゃんにとても感謝している。

でも、人はそんなにすぐに変われない。
嫌な事があると僕は寮の部屋にバリケードを作り立てこもったり、人や物に八つ当たりをしたりとどうしようもない中学生だった。
力を見せつけたかったのだろう。いわゆる厨二病だ。
そんな時には先生がそばに居てくれた。

悪い事はしっかりと悪いと教えてくれた。でも、僕の気持ちにも寄り添ってくれた。
その時の僕は知るよしもないが先生はすごく大変だったと思う。
僕がどうにもならなくなると家に帰れるように家族に連絡をしてくれた。
逃げ道も用意してくれたのだ。

担任の先生は休みの日にも出勤し、僕をカフェに連れて行ってくれた。きっと学園での生活に慣れずに気が滅入っていた僕を気にかけてくれたのだ。
相談室の先生は沢山の時間を僕に使い話を聞いてくれた。
寮の先生はまるで友だちのように遊んでくれた。
給食室のおばちゃんは、まるで本当の親のように接してくれた。
地域の人も学園に協力的でいつも笑顔で色々な事を経験させてくれた。
僕たちが不登校であるとかないとか関係なく、優しく時には厳しく僕たちの全てを受け入れてくれた。
感謝をしてもしたりないほど僕はこの学園に救われた。
胸を張って言える、この学園は僕の第二の故郷だと。

中学一年生の夏から卒業までこの学園に居て僕は色々な事を学んだ。
人と関わり合う事は決して良いことばかりではない。でも、そんな中でも自分を理解してくれる人と必ず出会えるという事。
そして次は自分が誰かを知る事で人とのつながりは広がっていくのだと。

僕は学校が好きなった。
僕は人が好きになった。
僕は僕を好きになる事ができた。

この学園があった事で僕は今こうして生きている。
そして僕は今保育士として、子どもたちと関わっている。誰かを支えたい。人の役に立ちたい。自分を活かしたい。

そんなふうに思わせてくれた西濃学園の先生に僕はいつまでも思い続ける。ありがとう。
僕を知ってくれて関わってくれた西濃学園で出会った友だち、先輩にありがとう。
僕を見捨てず、辛い時に優しく守ってくれた家族にありがとう。

最後に

今思えば、イジメられていた僕にも悪い所が沢山あった。
何の理由もなくイジメられていたわけではないのだ。

当時は僕だけではなく、家族も辛かったと思うが、今の僕は不登校になってある意味良かったと思えるようになった。
イジメられ不登校になったからこそ、知れた事もある。それは人の優しさだ。
全てを受け入れて何でもしてあげるのではなく、ダメな事はダメとしっかりと教えてくれ、良いところはこれでもかと褒めてくれる。
それが本当の優しさなのだと。

西野亮廣さんの言葉でこんな言葉がある。

時計ってスゴく面白くて、長針と短針があって
あいつらは1時間に1回必ず重なるんです。
1時5分くらいで重なって、2時10分くらいで重なって3時15分くらいで重なって、長針が追い抜いたと思ったら、また4時何分かで重なる。
毎時1回は重なるように出来ているんですけど、11時台だけは重ならないの。
11時台だけは短針が先に逃げ切っちゃって2つの針って重ならないんですよ。
次に針が重なるのは12時の鐘が鳴るときですね。
伝えたいメッセージは何かというと、
「鐘が鳴る前は報われない時間があるということ」
これは僕にもあったし、今後皆さんにも必ずある。
「人生における11時台」ってのは必ずある。
でも大丈夫 時計の針っていうのは必ず重なる。
だから挑戦してください。

西野亮廣 平成30年度 近畿大学卒業式スピーチ(YouTube)より

僕はこの動画が大好きだ。

僕の人生においてイジメられていた時間は「人生の11時台」だった。
だが、鐘は鳴り僕は学校に行けた。
これからも必ずどこかで「人生の11時台」はくるだろう。
でも諦めず鐘が鳴る事を信じてこれからも頑張っていこうと思う。



↑西野亮廣さんの近畿大学でのスピーチの動画です。お時間ある方は是非ご覧ください!

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