理性と本能
カンボジアの私と、日本の私。
どちらの私も同じ私のはず。
人格を変えている意識もない。
けど、海外に居ると開放的な気持ちになるのは私だけじゃないと思う。
カンボジアの私は本能的で、
日本の私は理性的なのだ。
カンボジアの私
カンボジアは人が自由だ。
道端で大声で歌いながら歩いている人がいて、
地面に寝っ転がって笑っている子供がいて、
夜も外のトゥクトゥクで涼しく寝てる人がいる。
みんなが自分の意志で、自分のしたいことをしてる。
(そうじゃない人も、中にはいると思うけど)
そのことを、ある人は「身体的」と表現し、
ある人は「原液そのまま」「丸裸」と表現した。
私はそれを、本能的であるのだと思っている。
そして、そんな本能的で自由な雰囲気に2ヶ月も浸っていると、私も自由な気持ちになってくる。
カンボジアの私は自由だ。
日本の私
日本の人は、すこし慎重だ。
何をするにも少し考える。
その意思決定は、周りにどんな影響を与えるか?
どんな出方をするのが最善か?
どのくらいのコスパなのか?
本能が感じたことを、理性のフィルターを通してもう一度眺める。
私はこれを、理性的であるのだと思っている。
集団社会の中で生きる日本という国に住むと、嫌でも他者を意識することになる。
そして、自然と公共の場での配慮ができるようになる。
他者を意識する以上、100%自分の本能では私は過ごせない。
日本の私は、すこし慎重だ。
どちらがホンモノの私なのか
自分として生きているつもりでも、国が違うだけで全く違う感じ方・捉え方をするようになる。
でも、どっちの国にいる私も私なのだ。
私は、今さら理性的な部分を削ぎたいとは思わない。
理性的で居ると消耗することもあるけれど、それは確かな知恵であり、武器になるものだから。
ただ、日本に帰ってから本能を抑圧することもしたくない。
大事なのは、割合なのだと思う。
本能:理性=7:3
カンボジアの私はこのくらい。
そして、私はそれがとても居心地が良い。
本能:理性=5:5
日本の私はこのくらい。
会社にいた頃は、もっと理性の割合が高かったと思う。
私が今最も心配しているのは、カンボジアでの割合を日本に持って帰ってこれるか。維持していけるかどうか。
今の居心地は、確かにホンモノの割合だと思うから。
きっと忘れないと信じる。
ご静聴、ありがとうございました。
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