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今月は、亡き母生誕90年の月です。

ここに書くことを、何度も何度も躊躇しましたが、敢えて恥を忍んで吐露します。はじめて他人に話すことです。

 ある晴れた日のコーヒーショップに現れた、出版社と名乗るその方は、少し苛立つように私に問いかけてきました。

「あなたのお母さんが認知症で話を聞けないというとは分かった。でも、あなたも息子として多少なりとも聞いているでしょう。出版の取材に協力してもらえませんか。」

 しかしながら、私には応じるつもりはありませんでした。
 何故なら、生前の母からこう厳命されていたからです。

「一族について、何も触れてはいけない。墓を掘り出してはいけない。今度はお前が呪われるだけだ。」

 子供のころから、なぜかしら母方の親族とは殆ど接触が無く、母が何人兄弟で、どのような生い立ちがあり現在に至っているのか息子の私も全く知りませんでした。

 その後、母は認知症が進み幻覚を見るようになり、大学病院の精神科に強制入院させられ大量の投薬を受けるようになりました。屈強な男たちに囲まれ鎮静剤を打たれた母の腹巻の中からは大量の預金通帳とともに、親族の連絡先が書いたメモがありました。10年ほど前の話です。

 他人の誰も信用しなかった、心許すことも趣味を楽しむこともしなかった、周囲から疎まれていた、ただ息子である私を溺愛しただけの彼女の半生はなんっだのか。私がメモに書いてある親族巡りを始めたのは、母が自宅にもう戻れる病状ではないと診断を受けたその2か月後でした。

ある親族から「二度と来るな。ヒトには触れてはいけないものがあるんだ。」と罵声を浴びたのは、私からの「はじめまして」の言葉のその5分後のことでした。

 そんな中、磐田市にある祖母の実家から聞けた内容は以下のとおりでした。

 母の実家浅羽家は、記録に残っているもっとも古い文献の吾妻鑑の記録によると、平安後期における1万石の城主であり、浜松の引佐町には京都の公家難波中納言とも姻族関係にあるとの記録が残っています。静岡の浅羽町(現在の袋井市)にある母の実家の跡地の発掘では、堀(濠)の跡と陶器が出土していました。土塁は戦前まで庭に残っていたそうです。

しかしながら、そんな蝶よ花よの生活も、戦後、母の兄(私の叔父)の博打による散財により、母の実家は家屋敷、広大な茶畑を失い、全てが瓦解しました。

母の実家は、容赦ない債権者からの追っ手から逃れるために一家離散し、祖父母は離婚し、44代当主であった祖父は70歳近くの身で、ある寺の小僧さん(掃除洗濯、料理、便所の汲み取りなど若いお坊さんの為の下働き。雑用係)として身を隠し、一生家族にも再会せずにお寺で亡くなりました。

離散した末に、母の姉たちは掛川や浜松に逃れ、母は祖母とともに知人の家の納屋に匿われる日々だったそうです。農機具を仕舞う小屋ですので、当然、暖を取るものがあるわけではなく、藁(わら)で作った枕が、朝になると凍っていることもあったそうです。小屋の近くで流れているせせらぎで喉を潤す、家人から提供される野菜のくずで糊口をしのぐという、遠州森町の山奥の暮らしでした。その後、多くの知人に頭を下げて渡り歩き、ジプシーのような日々を過ごしました。

母が亡くなる2年前に、最期の旅行として母の弟と母、私の3人で修善寺の旅館あさばで過ごしました。ここは、遠戚にあたる宿です。

既に認知症が進行している母でしたが、自分の弟との会話は健常者と変わらない会話が続き驚かされました。その中で、母の弟がこう言いました。

「一族の借金が返せ、わしらがこうやって穏やかに最期を迎えられるのも、上の姉の〇〇ちゃんのお陰だな。智己君の前では言えないが。わしと姉さん(私の母)がこの場に入れるのは、○○ちゃん(私の母の姉)が居てくれたからこそずら。」

私は察しました。

母の姉○○さんは、「身体を売って」一族の借金を返済したのです。

社会福祉だの生活扶助が充実する遥か前の時代の話です。

そこには、世間体やなりふりなど構わない、必死に生きぬいた時代の人たちの息遣いが聞こえるようでした。

出版社の依頼で書籍の続編として、こんな話を盛り込むことに、私は当時は承諾できませんでしたが、今から思えば、彼らが生き抜いた生き様、見栄やプライドを捨てて、生きること、後世にバトンを繋げることを選択した姿を、なんらかの形で残すべきだったかと思い直しています。

祖父がお寺で辛酸のうえ独り亡くなってから十月十日で生まれたのが私だそうです。同時に「呪われるよ」との予告を思い起こすにつけ、独り古家でキーボードを叩く自分を顧みると、

「ああ、予言どおりになった。」と苦笑いしています。

こんなことを書いて、天国の母はカンカンに怒っていると思います。

しかし、名も無き彼らが生き抜いた軌跡が、最期に少しでも陽の目が当たればと思い、独り言として書いてみました。

このタイムラインも、やがて流れていき、そして消えていく。

消えて忘れられることは、彼らにとって本望であるのかも知れません。
                                 完


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