人身売買を免れ空爆を生き延び、家庭に殺された父。
毎日、亡き父のことを考えている。
父を殺したのは私だと思う。
父は鹿児島の貧しい村に生まれた。
崖に張り付くように建てられた小屋に7人兄弟の四男として生を受けた。
なたね油の行商の父親(私の祖父)は父が6歳の時に亡くなった。
桜島の火山灰の堆積層である軟弱なシラス台地は、残酷だ。
台風による鉄砲水を吐き出し、父の自宅を家屋ごと沢に押し流す。
水を貯えないので稲作も出来ない。
粗末なサツマイモを育てることが、唯一の現金収入の手段だった。
崖沿いの野良仕事だけで、女手一つで子供7人を食わせていけない。
うち子供3人は幼くして亡くなった。
口減らし、現金収入の為に、父が売られることになった。
男手が無い家庭は、その労働力に期待して、資産家が子供を買いに来る。
当時、10歳の父も、不思議に思っていたそうだ。
「ときおり、知らないオジサンが来て、兄弟の中で自分だけに小遣いを渡して帰っていく。」
売られる直前に、母親(私の祖母)が「乞食になってもあたしが育てる」と叫んで幼い父の足にすがりついた。
おかげで父は売られずに済んだ。
貧しさもあり、学校にも行けず、親元を離れ働きに出るしかなかった。
13歳の春のことだ。
鹿児島管区の国鉄に就職した。
しかし、2か月後、その宿舎がアメリカ軍からの爆撃に見舞われた。
世に言う、昭和20年鹿児島大空襲だ。
幸いにも、父だけが生き残った。
たまたま、様子を見に来た母親を駅まで見送っていたからだ。
宿舎に戻った父を待っていたのは、友達や先輩たちの、もがれた手足と肉片であった。
仲間も上司も全員亡くなった。
父はトラウマとなり、もう国鉄では働くことが出来なくなっていた。
その後、県内の親戚で5年間親戚の大工に丁稚奉公として修業した。
その後、上京し、母と結婚し、私が生まれた。
母は、1月25日投稿の「ホームレスの子に生まれて」で説明したように、吾妻鑑に登場する源氏の武将の旧家に生まれながら、親族の博打による借金で一家離散した経験を持っている。
そのせいか、お金に対する執着が強く、父を金づるとしてしか見ていなかった。
同時に、私と姉を囲い込み父の悪口を吹聴していた。
いや、悪口のつもりではないのかも知れない。
母はその気の毒な境遇から、ヒトに対する猜疑心が強くなっていたのだろう。お金と血を分けた子供しか信用できなくなっていた。
彼女も、修羅の家庭の犠牲者でもあったのだ。
当然、毎日夫婦喧嘩が絶えず、私も子供のころ布団をかぶって「神様、父と母を仲良しにさせてください」と、震えながら、何度も祈っていたことを思い出す。
そのうち、子供の私はこう思うようになった。
「父親が帰ってこなければいいんだ。」
母子の夜の団欒の際に、父が帰宅する音が聞こえると、私をはじめ、子供らは部屋に閉じこもり父と会わないようにした。
いかにも、「団欒の邪魔をする父が帰ってきた」と。
汗まみれで疲れ果てて帰ってきた父。
帰ってくるときに、そっと玄関を開けて、必ず咳ばらいをする父であった。
”帰ってきたよ””今日も仕事が終わったよ”
遠慮がちに帰ってくる父なりの、ささやかな家族との声なき”会話”であった。
父は所在無げに、別室で冷めた夕食を独りで食べる。
誰も父に話しかけない。
そんな関係が30年間続いた。
恐らく、私は母からある種の洗脳を受けていたんだと思う。
父と話をすると母は極端に不機嫌となり怒りだす。
私は、家庭内で表面的な波風を立てないようにするためには、父が家庭内で、さも居ないように接することが最善だと思った。
母親への忖度だった。
父にとっては、残酷な毎日が続いていたんだろうと思う。
「思う」というのは、父との会話が無いがゆえに、今となっては察することしかできないからだ。
そんな父でもさすがに耐えきれなかったのだろう。
自分が家庭内で金を無心されるだけの存在に過ぎないことに、父が「もう死にたい」と涙ながらに訴えてきたことがあった。
「死ねば。」
それが母の冷淡な回答であった。
「子供は、自分(母)についている(味方だ)」
と思うがゆえの母の強気が、そう言わせたのだろう。
父は、私に
「父親として自分はどう振舞えばよいのかわからない」
とつぶやいたときがあった。
そう、父は幼いころに父親を亡くしているからだ。
ここまで家族に冷たくされるということは、
「自分が父親として相応しい言動が出来ていないのではないか」
と父は自分を責めたのだ。
貧困を極めた過疎での生活。
父の存在を知らないで育った負い目。
父が自分を責めた根拠であったのかも知れない。
父は、何も悪いことなどしていない。
ただ、貧しい村から上京して、働いて働いて家族に優しく尽くしてくれただけだ。
父の口からは母の悪口を一度も聞いたことが無い。
母からここまでされても。
母が最期は認知症を患い、何度も生死をさまよった。
父は献身的な介護をしてくれた。
「施設に入れさせない。俺が最後まで面倒を見る」と涙ながらに父は言っていた。
あれほどひどい目に会った母を、大切な伴侶として見ていたのだ。
息子の私も心底驚いた。
「お父ちゃん、やっぱり、あんたは立派な夫であり父親だったよ。」
今なら、そう声をかけることができる。
家庭はかけがえのない団欒にもなるし、残酷な場にもなる。
密室で、他者がうかがい知れない、アンタッチャブルな世界だからだ。
家人が各々の正義なるものを持ち合わせ、率直にぶつけ合う場。
時としてのりを超えた言動を招くことになる。
長年の家庭でのストレスや老々介護の負担は、確実に父の身体を蝕んでいった。
貧困や空爆で生き残った父は、家庭によって殺された。
父は、私夫婦の、つまり息子夫婦のことを最後まで案じていた。
亡くなる直前に、私にこう言った。
「家庭を大切にしろ。俺のようになるな。」
妻子から罵られ続けた男、自分を責め続けた男の最期の言葉だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?