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【書評シリーズ】「『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』を旅する」①/小津夜景


理知と無心


 すばらしい紀行文だ。著者の市河晴子は1896年、法学博士穂積陳重と渋沢栄一の長女で歌人の渋沢歌子との間に東京で生まれた。19歳で英語学者市河三喜と結婚。本書は1931年3月、日本人初の東京帝国大学英文科教授として活躍していた夫・三喜が欧米諸国の実情視察の旅に出た折、それに同行して各国のようすを夫と共著で描いた『欧米の隅々』と、1937年、日米親善の民間外交を託され単身渡米した際のできごとを綴った『欧米の旅、日本の旅』との2冊をもとに、編者・高遠弘美氏が選りすぐった文章から成っている。

 私が初めて読んだ市河晴子の文章は「ピラミッドに登る」である。今度、この人の本を出そうと思っているんです、と素粒社の北野氏が送ってくれたのだ。数行読んで叫んだ。傑作じゃないか。豊かな教養。弾む文体。偏見のない目。そしてユーモアのセンス。こんな人間がかつていたのか。読み終えた時には恋に落ちていた。

 すさまじく青い。眉に迫るほど近い。それは北欧の冬の空の、垂れさがったような近さとは全然違う。碧瑠璃へきるり玻璃盤はりばんを頭上二十尺に張り渡した堅さだ。おのを振って丁と打てばパリパリと電光を飛ばせて銀色の亀裂が入るに違いない。風が吹く。遮る物なき沙漠の上空を矢のように飛ぶ風だ。吹き送るべき雲の一片をも持たず、一直線に上空を走る風は、鋭いピラミッドの先端に触れてかすり傷を負ってピピピピピと裂巾れっきんのような叫び声を立てる。また沙漠の砂を巻いて、地上を征服しつつおしよせて来た風は、このピラミッドにガッキと受け止められて、三百尺四百尺を逆撫さかなでにピラミッドに沿って飛びあがり、上空の風とぶつかって激す。轟々ごうごうと鳴りまたハタととだえて、その間の静寂はまた妙にひっそりとする。ただ日光ばかり燦々さんさんと降り注ぐ中に、五百尺の三角の、とっきにつっ立っているのは、甚だ晴れがましいものだ。

「ピラミッドに登る」287頁

 こうした、晴子がのびやかに言葉を生きている箇所は、数え上げればきりがない。抜群の弾性力で、奔放でありながら計算を欠かさず、美文に抗いつつ美をつらぬいた文章からは、ところどころ講談のエッセンスが香り、見せて聞かせるエンターテインメントとしての牽引力を備えている。それでいて世間臭くない。清潔なのだ。自意識が控えめで、世界を目撃する感動を餌に読者を釣り込もうとしていないからだろう。加えて、純然たる写生文に、こっそり過去の声を溶け込ますその腕前といったら。例えば「吹き送るべき雲の一片をも持たず」は漢詩のヴィジョンだけれど、それがどうにも自然である。手垢の曇り汚れがしっかりと拭いてあり、一瞥では古さを見過ごしてしまうくらいに。また「碧瑠璃の玻璃盤を頭上二十尺に張り渡した堅さだ。斧を振って丁と打てばパリパリと電光を飛ばせて銀色の亀裂が入るに違いない。風が吹く。」は謡曲好みの彼女らしく、白楽天「碧瑠璃の水はきよくして風なし」の主題をまっさかさまにした変奏曲のようである。なんと度量の大きい、自在なウィットだろう。おのずと読書の量が思いやられるが、もちろん書くためにはたくさん読めばいいってわけじゃない。読むから書くへの転換には、そのつど必要に応じて自在に組み立て、また解体することのできる自己抑制が必要だ。

 暁である。ユングフラウの雪が、まだ地平線下にある黎明れいめいから光を吸い上げて、麓の里インターラーケンの夜は早く白む。蒼黒あおぐろい前山は、よどんだ闇の中に暗く沈んでいるのに、その模糊もこの上を乗り越えて、中空の銀嶺ぎんれいだけが、クッキリと光って、手前へ手前へとり出してくるようで、「お天気はどう?」と、起き出したばかりの渋い目には、景色が頭でっかちな不安さえ感じられる。しかしじきに、そのあらわな岩襞いわひだの間から、むくむくと白い雲が湧いて、嶺一杯にまとい附いてしまう。もう見えない。いいえ、真珠色の雲の間から、ぶっかいた大理石のような山肌が、今は菱形ひしがたに、やがて三角に、あすこから見えては没し、ここに現れてはまれて、山がうごめいているようだ。
「オイ、朝飯を食わないと登山電車が出ちゃうぜ」とうながされて、食堂に下りる。そこそこに済ませて、も一度窓際に走りよると、夜はすでに明け離れて、ユングフラウはとりすました顔して、奥深い峡谷の突当つきあたりに白々と正面を切って、絵葉書で見なれた、調った、硬い美しさに戻っていた。

「ユングフラウを見に」202-203頁

 こうした概念的ではなく直接的に対象をとらえた描写こそ晴子の本領だ。目の前の自然を介して、何かのイデオロギーを表現しようといった下心がない。そうして理知と無心とが、随所で大胆にうごめきつつも、なんの矛盾も来たさずに共存している。句読点が小石のように跳ねた文体も、読書していると、ぴょん、ぴょんと、オフロードを走るみたいで愉しく、対象がもつ生命をつかむ力が、書くことにおいても発揮されているなと思う。

 床は黒と白の細かい市松の花瓦が、樹の間る月光を想わせて冷たい。その床にアラビヤ風のふくよかなクッションに寄って半ばよこたわれば、視線の行末は天井である。だからムア〔ムーア〕は天井に凝った。ある室は天井と扉を沈んだ色のシーダの寄木細工に張って、直線の組み合せの間に青貝や象牙の螺鈿らでん落附おちついた光をちりばめ、嵯峨たる梅の枝に白梅の点々たるに似た、最も極東的な渋い趣を現す。しかしアルハンブラの真の面目は、もっと色っぽい。その寝室はアラビヤン・ナイトの寝物語にふさわしく、麗人の胸に幻想の盛りあがり湧き上るのを押しひらめぬために、天井もまだ蜂巣ハネコムに似たドームをなして、五千に近い小窩しょうかの凹凸が光と影とを怪しく錯綜さくそうさせつつ、ふっさりと王者の夢を覆う。
 その後宮には美しい浴室があって、湯上ゆあがりのほてりをさまへやも附いている。北欧の宮殿が威厳を示す政治の器具なのに比べて、ムーアの宮殿は豪華な生活のうつわという感じがする。絢爛けんらんたる宮居の様式も、水を草とを追う牧者のテントに源を発し、丸型の天幕を細い柱に支え網代に編んだむしろでその裾を囲った簡単な一夜の宿が、美化され美化されて、今は人工のきわみを尽しつつ、なお一脈素朴な香がその底に漂い、私たちは伊勢大神宮の千木ちぎ鞭掛むちかけの前に感じると同じ、古代実用物の自然な装飾化の素直さの前に微笑ませられる。

「アルハンブラを見に」161頁-162頁

 物怖じせず、大胆なばかりではない。アルハンブラ宮殿の姿を、まずは身体の自然なうごきに沿って説き、つぎによその国の文化と比べ、さらに古の牧者のテントの記憶と繋いでみせた上の箇所などは流麗で、視野の広さと、その広さを裏打ちする知識の量に支えられた晴子の筆力の幅を伝えている。わけても連想の赴くままにみせかけて、吟味を経た語を整然と配し、想像力の細道を正確に辿ってゆくことで膨らみを得た雰囲気からは、晴子の内省的な美質がはっきりと読み取れるだろう。

 ミュジーアムの、しかも壁にかけられたモザイクは単なる考古学資料で、ただ美術としての美しさにのみ心を引かれるが、こうして床に残るのを見ると、そこにあった生活が思いやられて、遠く南の国から辺土の守りに使わされた将軍の事などが、胸に浮ぶ。ローマの勢力は西洋史でも教えられた。しかしその紙の上の、押花のようであった智識ちしきが、こうした細かな遺跡を見て行くにつれて、霧の彼方の白百合のごとく、ぼんやりと遠い実在として、立体的に浮きあがって来る。そして黴臭かびくさいのは消えて、微かな芳香を放つ。もっと正直に云えば、「歴史は習うためにあるんじゃなくて、過去の事実の記録だったわ」という発見に驚かされて、私たちの受けた歴史教育を、根本的不満の眼で、ふりかえり見、現代の教育のしからざらんことを祈る。

「湖水地方」107頁 

 ときに香り立つ和文にもあっと驚く。上の箇所などは話を運ぶテンポの折々や心理の動きに、その佇まいがはっきりと現れている。さりげなく彫琢を極めつつも、余白をたっぷりと取った品の良い語り口で、理屈を言うときすらどこか無防備な、たゆたう感じがあるのだ。この辺りがまさに和文体ならではで、私は『更級日記』の翻訳を読んでいるような気分になった。いや、気分ではなく、たぶん本当に菅原孝標女の文体を再創造しているのだろう。そう考えた方が、本書を読み終えたあとでは何かと腑に落ちる。

 このように、晴子の文章の魅力は多面的で自由自在、語り出すといつまでも終わらないが、もしも本書を手に入れ、最後まで目を通したならば、読者は晴子のもうひとつの素顔を知ることになるだろう。そのもうひとつの素顔は、彼女の文章を考える上でけっして無視できないものだけれど、ひとまずはそれについて考える前に、いまから100年前に欧米を旅した一人の女性の声を、ふたたび、みたび、くりかえし私は味わいたいと思う。

小津夜景|おづ やけい
1973年北海道生まれ。俳人。句集に『フラワーズ・カンフー』、その他の著作に漢詩翻訳つきの随筆集『カモメの日の読書』『いつかたこぶねになる日』、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者・須藤岳史との共著『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』などがある。最新句集『花と夜盗』刊行。ブログ「小津夜景日記


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