見出し画像

【ためし読み】小津夜景著『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』/⒋翻訳とクラブアップル

2020年7月に創業したばかりの出版社、素粒社です。素粒社のはじめての本となる、小津夜景著『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』が刊行されました。フランス、ニース在住の俳人・小津夜景さんがつづる漢詩のある日々の暮らしーー杜甫や李賀、白居易といった古典はもちろんのこと、新井白石のそばの詩や夏目漱石の菜の花の詩、幸徳秋水の獄中詩といった日本の漢詩人たちの作品も多めに入っていて、中国近代の詩人である王国維や徐志摩も出てきます。本記事では『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』の一部をためし読みとして公開しています。


 翻訳とクラブアップル


 中国の漢詩が海外文学であることに気づいていない人はあんがい多い。
 理由はひとつ。読み下し文というものがあるせいだ。
 漢文の訓読(原文に助詞などを補い、日本語の文法構造にそって読み直すこと)は古代からある習慣で、はじめは翻訳でなく、あくまで解釈の技術だった。それが返り点などの補助記号が考案され、読み下し方が流派ごとに定まって、しだいに漢文訓読体とよばれる文体として定着してゆくのである。
 たんなる解釈の技術だったものがいっぱしの文体を手に入れたとき、いったいなにが起こったかというと、まるで読み下し文がそのまま翻訳であるかのような空気ができあがった。とはいえ、読み下しただけで意味が正確にわかる漢詩はまずないから、漢詩の本をひらくと、読み下し文の横にさらに和訳がついている。で、この和訳がまた、ほかの外国詩とは似て非なるしろもので、味わいに欠けていたり、ときに日本語として変だったりするのだけれど、漢詩には読み下した時点で翻訳がおわったという了解があるので、そんなふうになっている。

 もっとも漢文訓読という方法そのものは、ものすごく面白い発明に違いない。たとえば川本皓嗣は「漢文訓読とは何か―翻訳論と比較文化論の視点から」の中で、漢文訓読にまつわる一連の流れを即席翻訳法、いまでいう機械翻訳システムの開発だったと述べ、これがあったせいで日本人は、中国語で音読せず日本語にも翻訳せず、といった独特の距離感で漢文とつきあってきたのだ、と説明する。
 この翻訳法は即席だけあって、原文の漢字をそのままそっくり活用するといった手軽さが売りだ。ふつう翻訳するときは「これは日本語でなんというのだろう」と頭を悩ませないといけないけれど、漢文訓読ではそうしたことを思いわずらうことなく、目の前の漢字をならべかえさえすればいい。この翻訳法は文法解析についても一流で、ならべかえの順序は専門家たちによってだいたいマニュアル化されている。

 効率性および文法解析に秀でる一方、問題なのが日本語としての意味があやしい点だろう。このあたりの話は例が多すぎてかえってややこしいのだけれど、一番わかりやすい例を出すと、中国語の「湯」は日本語で「スープ」のことで、中国語の「鮎」は日本語で「ナマズ」のことで……といったふうに、両者の言語のあいだには文字が同じでも意味の違うものがたくさんある。ところが漢文訓読ではもとの漢字をそのまま使うから、正しく読み下したところで日本語として成り立っていない事態がしょっちゅう起こるのだ。
 じゃあどうして日本人は、意味のわからない読み下し文に、ふむふむと耳をかたむけてきたのか。これは漢文訓読体が堂々とした独特の美をもつからといった音楽的理由が大きい。さらに、漢文で書かれた原典はいわば聖典であり、知識人たちにとっては秘語だった方が権威に酔えるし、一般人にとってはふわっと感覚できればそれでじゅうぶんだったという舞台裏もからんでいそうだ。お経なんて漢文の比じゃなく、ほんとにひとつもわからないのに誰も不服をとなえない。漢詩もそれと似ていて、わたしも日ごろはごたぶんにもれず、響きの美しいフレーズだけを楽しみ、なんとなくわかりそうな気分にひたれるところだけを読んでいる「ふわっと派」だ。

 漢語の意味があやふやなのはむかしも同じだったようで、平安時代には文選読みという訓読スタイルが誕生した。文選読みとは、ひとつの漢語を音と訓で二度続けて読むこと。算道家・三善為康(みよしのためやす)の書いた、当時の子ども向け参考書『童蒙頌韻(どうもうしょういん)』の冒頭を文選読みしてみる。

 東風 トウフウのひがしのかぜふいて
 凍融 トウユウとこほりとく
 紅虹 コウコウのくれなゐのにじ
 空衆 クウシウとそらにしぐるる

 こんなふうに、まずは漢字を音で読み、つぎに「の」「と」「に」などをはさんで訓読する。ついでに書くと「二度とふたたび」「面とむかって」「既にもう」なども文選読みで、このへんは重言と変わらない。芸能の世界では、戦後も語りの手法として残り、トニー谷のトニングリッシュには英日の文選読みが多用されている。

 マウント・イースト・東山、
 サーティーシックス・三十六峰、
 クワエット スリーピング・タイム、
 ここ三条ブリッジ・イン・ザ・京都シティ、
 幕末勤王佐幕・タイム。
 突然サドンリー・ハップン起こるはチャンバラサウンド。
 (トニー谷「チャンバラ・マンボ」)

 かたや英仏の漢詩翻訳はどうかというと、日本のようにこみいったいきさつがないぶん、かなり根っこがのびのびしている。さいきんは、ジャオション・ウォン訳の李清照全集をひらいたら「詞牌 好事近」が Tune : Happiness Approaches と訳されていて思わず胸がきゅんとしてしまった。「詞牌」とは曲調のことで、「好事近」は数ある詞牌の中の一名称である。この名称は作品の形式(字数や行数、抑揚のつけ方や韻のふみ方など)を指定する符牒で、作品の内容とは無関係。そのため日本ではこれを訳さずに「詞牌 好事近」とそのままにしておくのがふつうなのだけれど、ハピネス・アプローチズという英訳があまりにすてきだったので、わたしも真似してみたのがこちら。

 曲調「幸福が近づく」
 ソリチュード  李清照

 風が鎮まり 散った花は深々と
 御簾の向こうで紅を抱き 雪のようにつもっている
 永遠(とわ)におぼえている 海棠が咲いたあとの景色を
 それはまさに 春の嘆きそのものだった

 酒は尽き 歌は止み 翡翠の杯は空となり
 ランプの青いともし火が 心もとなくゆれている
 ぼんやり夢をみていても 秘めた怨みは抑えがたい
 そこへひと声 ほととぎすが啼いた

 詞牌「好事近」
 寂寞

 風定落花深
 簾外擁紅堆雪
 長記海棠開後
 正傷春時節

 酒闌歌罷玉尊空
 青缸暗明滅
 魂夢不堪幽怨
 更一声啼鴂

 李清照は北宋から南宋にかけての詞(曲をともなう漢詩)人で、この作品は彼女が夫と生き別れになったのちのものらしい。情念を描いていても清廉な感覚が保たれ、志が高く、真珠のごとき気品さえ感じられる。かつて青木正児は『琴棊書画』の中で、詩論における「神韻」の「韻」の字は、音声にかんする字ではあるものの、その中に潜むのは「声」ではなくむしろ「香」であろうと述べたけれど、李清照の作風をひとことで言い表すならば、この「香」がふさわしいと思う。

 ちなみにウォンは「海棠」を「クラブアップルの花」と訳していて、わたしはそれにも胸がきゅんとしてしまった。わたしの中でクラブアップルといえば『赤毛のアン』の舞台、プリンス・エドワード島の「歓びの白い道」なのだ。クラブアップルの砂糖漬けは、子どものころすごく食べてみたかった幻の味のひとつで、大人になってから、父が実家の庭先で育てている海棠がクラブアップルだと知ったときは、うそ、こんなすぐそばにあったの、と拍子抜けしてしまった。海棠はバラ科リンゴ属の中ではとくに美しい花をつけ、観賞用に栽植される。父はその果実で、毎年砂糖漬けではなく海棠酒をつくっているのだった。

 

小津夜景(おづ やけい) 1973年北海道生まれ。俳人。2013年「出アバラヤ記」で攝津幸彦賞準賞。2017年『フラワーズ・カンフー』(2016年、ふらんす堂)で田中裕明賞。2018年『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。ブログ「小津夜景日記*フラワーズ・カンフー



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?