多様性の受容と自己主張

「多様性を受け入れること」

「自分自身の意見を持ち、発信すること」

私はこの2つを両立させた人間になりたい。だけどそれって難しいよね、って話をしていく。

私は、幼い頃から多様性に対して寛容な性格だった。生まれつき目が悪く、3歳の頃からメガネをかけていたため、多少なりとも「人と違う」状態にある経験をしていたからだろう。加えて、ゼミで多文化共生について学んでおり、他の人よりマイノリティが抱える問題を「知っている」という側面もある。

私が多文化共生について学んでいるゼミは学問領域の「社会学」に分類されるのだが、この社会学の考え方で、とても好きなものが一つある。この考え方を知ってから自分の多様性に対する寛容度がグンっと上がった。

それは「他者の合理性」という考え方だ。

一言で説明すると「世界中の全ての人が(その人からすると)最も合理的に生きている」という考え方である。

例えば、しょっちゅう人の悪口を言い、集団の中で煙たがられてしまっている大人がいるとする。多くの人は、「バカな人だなぁ」とか「大人になってもそんな行動しているなんて信じられない」などという感想を持つと思うが、社会学ではこの人も「合理的である」と考えるのである。

しょっちゅう悪口を言うことが、その人にとってはプラスになっているのだ。(悪口で人を傷つけることは完全に悪であると思うが。)その人は悪口を言うことでしか自分のストレスを吐き出せない人なのかもしれないし、悪口を悪口と認識できないのかもしれない。とにかくその人は、悪口を言うことが、トータルで考えて自分のプラスになっているのである。

私はこの考えを知ってから、大体の考えや行動は受け入れることができるようになった。もちろん人を傷つけたり攻撃するような、倫理的?道徳的?に良くない行動を許していいというわけではない。ただ、そういう行動をする人にも、何かそうせざるを得ない理由があったんだな、と思うことができるようになった。

しかし、多様性への理解や寛容度が高まったことで、私は自分の意見を持ちづらくなり、発信しづらくなってしまった、と感じる。

友人と話をしていて、彼の意見と異なる考えを伝えようとする時、その発言を抑えるようになった。彼の意見は、彼の今までの長い人生の経験や知識に基づいており、それを否定することなんてできない、と思うのだ。

そしてこのスタンスを持ち続けていたことで、自分自身の意見を持ちづらくなってしまった。相手の意見を無条件に受け入れるような態度でいると、自分の意見や感情に目を向ける必要がないため、自分の意見がどんどんなくなってしまうのだ。

ゼミでこの「他者の合理性」を学んでしばらくの頃は、自分の意見を持たず、発信もしない状態に何の違和感も感じなかった。むしろ、「多様性に寛容になった自分、素晴らしい」と思っていた。

しかし、長期インターンをして働く中で、この考えが覆された。

「自分の意見を持っていないやつ、発言しないやつは、会社に対して何の価値も与えていない」

副社長からのこの言葉は自分の胸に深く刺さった。確かにその言葉通りだなと思った。

そこから僕は、なるべく自分の考えを発信しようと試みた。しかし、そう簡単には上手くできるようにならないものだ。今まで自分の意見を発言することをかなり控えめにしていて上に、自分がどんな意見や思いを持っているかさえ考えたことがなかったため、そもそも”自分の意見”がなかったのだ。

最近では、自分の意見を言える回数が少し増えてきたかなと感じるものの、控えめになってしまうこともまだまだ多い。

さらに、このタイミングで自分の意見をいうべきではなかったかもと感じるような場面も何度かあった。難しい。

「多様性を受け入れること」

「自分自身の意見を持ち、発信すること」

この2つを両立させる挑戦をこれからもしていく。



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