感情の共感からキボウのかけらの共有へ
今日は違うことを書こうと思っていたのだけれど佐渡島さんのnoteを偶然タイミングよくみて、それそれ!と思ったのでこちらの話を書くことにしました。
昨日と一昨日で人との関わりが一番、人との傷を癒すのに早いって話をnoteに書いたのだけれど、その時にコルクラボの中でみんなが寄り添ってくれたって書いたと思うんですよね。
で、佐渡島さんが寄り添うってなんだろうっていう記事の中で
“「視点、知識には共感できない。感情にだけ共感できる」 知識や技術は、自分の経験や見えている視野によって、価値が変わる。相手のためと思って伝えても、同じ経験や視野を共有していない受け手からすると、その価値は響かない。むしろ、ダメ出しをされているように感じて、距離を置いてしまう。 それよりも、目の前で起こっていることに対して、「自分は、どう感じているのか」と感情の共有からはじめてみる。相手の感情を理解して、それを踏まえて話すことが重要だと思っていたが、逆だ。自分の感情をまずは伝えてみる。それが寄り添うという行為なのだ。”
こう言っていておおーと思ったのです。
感情に共感するだけでいいかもしれない、寄り添い
相変わらず自分の言いたいこととかの語源化というのは上手ではなくて、人が言っていたのを聞いたりしてそれそれ!と思う日が続いていて嫌になる自分もいるのですが、でもやっぱりこれはそうだなって思いました。
特に私はそうしてるなあって思ったのです。
前にちょっと人に言ったことの中で例えて言えば、例えば家庭内の話を聞いて、いいなあって思ったりすることがあっても本当に外には見えないわけです。でも簡単に「幸せそうでいいね」って言ってしまうこともできたりする。けれど言われた方からすればそんなことはないと思ったりすることもある。
じゃあなにがいいんだろうって思った時にただ感情に対してそうだよねーとかそういうことってあるよねとかいう様にしているのです。出来事や事実に対しては置いておく。
それは私がどう転んでもいまいちな家庭に育ってて、だいぶな人生を送ってきたっていうのもあるのですが、
所詮他人、わからないものがほぼ全部。
と思っています。
わかるっていう方がおこがましいかなって思うんですよね。すべてにおいて。
仕事も家庭も子育ても。
そういうことってあるよねっていう肯定くらいはできるけれど、重い話になるとそもそもそれさえも、そういうことあるって本当に思える?っていう話になっちゃう。
それはこうだよねっていうよりはもう、気持ちわかる!辛いねっていう方がいいんじゃないか、っていうのが佐渡島さん流にいうと今の私の解です。
コーチングをしている中での寄り添い
でさらにコーチングをする中での寄り添いとしてあるとしたら、私はただ聞く。ひたすら聞く。それで本人が整理をされていく。それが寄り添いだなあと思っています。
もちろん聞かれたら答える知識はありますが。
で、これをやってるといいのは
キボウを共感できたりする
寄り添って話を聞いていて、話していた本人が何かを見つけておおーそこかーいいねーって希望が出てくる。それもまた共感できてこっちも幸せになる。
みたいな
これ別にコーチングを習ってなくてもできるので。
一緒に話を聞いて、何か見出せるもの。キボウのかけらの共有、試してみてください。
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そんなキボウのカケラを主人公に託した小説
普通の会社員の主人公が、ビジネスでインドに滞在し犬を拾ったことをきっかけに、インドの日常に横たわる人々の深層意識やカスタムに触れていくお話。
NewsPicksでも紹介されました。
なんと、るろうに剣心の大友監督と、ドラゴン桜の編集などもされている佐渡島さんからも書評をいただきました。
よかったら是非読んで見てください。
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