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多様性の落とし穴?

※長くて硬い文章です。

ここのところ、「所与」という言葉が気になる。

気になっているのは「所与を生きる」という考え方である。「所与」は「与えられた」という意味であれば、僕らは「与えられた生を生きている」ということである。

僕らは確かに「与えられた生」を生きている。狭義で言えば、人間に生まれてきたことも、日本に生まれたことも、男に生を受けたことも、死ぬべき生を生きていることも、自分では選べない。一方で、僕らは自我を持つ主体的個人として自由意志において生きている。その相互の在り方をどう考えればいいのだろうか?ということである。


そんな問が気になったのは、まず、単純に言えば、進路の選択に迷って相談に来た生徒に次のように答えた自分自身の言葉にひっかかったからだった。


ざっとこんな内容である。

大学は学問と社会に触れ、自分の生き方を発見する場所である。君がまだ知らない世界がたくさんあり、そこには幸せになろうとして幸せになれず、それでも幸せを求めて歯を食いしばって生きている人がたくさんいる。
世界を見、いろいろな土地に訪れて、その人たちが暮らしている日常や、抱えている差別や貧困、苦悩を、自分の足で、肌で感じ、本当の豊かさとは何だろうと問わなければならない。それ以外に大切なことはない。
それをするのにどこに身を置くかは、あえて問題ではない。もし、大学の名前とか、そんなちいさなプライドにこだわっているなら、それは捨てるべきだろう。

未知は輝かしい可能性であると同時に、惨めな失敗の可能性でもある。選択という行為は、自分の意志でそのどちらであっても引き受ける自分の覚悟である。引き受けた道で精一杯生きるしかない。
だから選択とは、選ぶことそのものに意味があるのではなく、その後を豊かに生きることに意味がある行為だと言える。
正解は君自身のその覚悟にあり、その自覚だけが、たとえそれが失敗であってもそれを輝かしい可能性に切り替えることを可能にする。

選ぶことは可能性を選ぶことではなく、自らをひとつの可能性に限定することであり、そこから可能性を築こうとする勇気が試されている行為である。正解はない。
でも、より精度の高い選択を可能にするためには、身を置いた「いま・ここ」で、自ら動き、感じ、考えることを重ねるしかない。それが、自分の「いま・ここ」だけにとらわれない新たな地平を拓く道である。


ちょっと気取ってまとめたので、気障で硬いものになってしまったが、おおよそそんなことを言いながら、僕は二つのことに思い当たった。

ひとつは、自分のアドバイスの正当性である。既に老年である僕は「所与を生きる」ことの肯定に傾きつつあり、若者の「意志」を「所与」にすり替えて説明しようとしているのではないかということ。
でも、それでも今の自分が生徒に対してそういうことを言うことが、疑念を抱きつつも必ずしも誤っているのではないと考えていることに、誤りがあるのだろうかということ。

もうひとつは、僕らは、前に書いたような生物的な「所与性」だけでなく、社会的な「所与性」を生きているということ。当然と言えば当然だが、僕らは家族や社会の一員として日々の生活を営みながら、そこで「所与」のルールや価値観に従い、役割を負うことで責任を果たしている。それは「自由意志」の範囲内ではないかと言うかもしれない。

しかし、「暮らし」を支えるために、その「枠」の中での忍耐を基盤として生きているというのが現実である。その「所与性」をどう処理すればいいのか、「枠」を打ち破り超えていくことが大事であると同時に、「枠」を超えられないのは弱さではないのではないかということである。

人は、自分の生を主体として「意志」して生きるのか、「所与」という与えられた生を客体として受容するのか。「意志」の果てに行き着く認識が「所与」を受容するということであるのか。はたまた「所与の自覚」を「意志」的に生きることがより高次な生き方であるのか。あるいはそういう対立的発想自体が無意味なのか。

蛇足のような本論になるが、実はこんな青臭いとも思われる問についてわざわざ書いてみたのにはもうひとつ理由があって、それは「多様性」ということである。僕らが「所与を生きる」と考えた時、様々な社会的レベルの生を、生物としての人間にまで広げて受容していこうとするのが「多様性」であれば、「多様性」は「所与」逸脱していく在り方とも言えないか、という問題である。

「所与」として障害を持つ生を生きる人を認める、社会の中でその生まれた環境の中で差別を受けるマイノリティの尊厳を認める、そうしたことは当然だろう。しかし、それとは違うレベルで現代文明は「多様性」を次から次へ生み出し、現場では様々な現実的対応を日々求められる。

しかし、「多様性ということが本当はどういうことなのか」についてどうしても考えなければいけないのではないか、あるいは「恣意性に基づく所与」と「恣意性に基づかない所与」ということについても考えを巡らせる必要があるのではないか、と思う。

もっと、単純明快に話をすると、この間から学校の脇の道を老人と後ろ足を引きずって歩く老いた犬を見た。数日後に、その犬は車輪の付いた器具を後半身につけ、老人にリードを引かれながら必死で歩いていた。その姿を見た時、「多様性」と「所与性」が衝突せざるを得なかった。

僕らは「迷う必要がある」と言えば、「現代の柔軟な多様性」から逸脱するのか? 現代が「平等」「自由」と同じように、「多様性という名の罠・落とし穴」に嵌っていはしないか?

僕は「もう少し、迷いたい」気がしてみたりする。

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