見出し画像

第133話:焚き火

もう昔々の話である。

ある時、新しいメールアドレスを作った。
脳に余裕のない僕は、たいてい自分のあだ名である「土竜」をアドレスに使うのだが、同じように脳に余裕のない人はたくさんいるようで、土竜も、土竜くんも、土竜さんも、土竜ちゃんも、土竜はんも、みんな既に使われてしまっていて、使えない。数字と組み合わせればいいのだが、それも味気ないので半分いい加減に「土竜が海を見ている」と打ち込んだら、さすがに誰も使っていなかったらしい。すんなり通ってしまったので、これを採用することにした。
もう使ってはいないが、なかなか「詩的」で「素敵」な名前になったと、自分のヒラメキの才能に感動したりなどした次第である。


海がいい。

そう、最近とみに思うようになった。のんびりと海を見ているのは心地よい。山と海とどちらが好きかで人を二分できるようだが、僕にとって、山は登るもの、海は見るものである。

だから、何にもしなくていい休日で、何にもしたくないけれど、でも、ただゴロゴロ過ごしてしまいたくないときは、僕はカミさんと息子を連れてよく海を見に出かけた。
取り立てて何が楽しいわけでもないが、海は「取り留めのない僕の時間」をゆっくり満たしてくれる。カミさんと息子がそれで楽しいか、聞いたことがないからわからないが、三人でぼんやりと何もない時間を過ごす。

それでもちょくちょく、サツマイモを持っていって焼き芋をするようにもなった。流木がたくさんあるので芋を持って行くだけでいい。流木を集めながらしばらく焚き火をして、オキができた頃、芋を入れる。あとはチョロチョロと流木を継ぎ足しながら、芋が焼き上がるのを待つ。

その間、たいていカンやペットボトルを5メートルくらい先に立て、座ったまま小石を投げて三人で「当てっこ」をする。
全く意味のないことだが、焚き火を横に置いて、なんだか自分を取り戻していくような、豊かな感覚が自分の体の中を流れていくような、そんな気になる。


焚き火はいい。

子供の頃、冬の日曜の朝は決まったように焚き火をした。ゴミや枯れ木を継ぎ足しながら午前中を過ごす。芋を焼いたり、栗を焼いたりもしたが、ほんわかと暖かい火にあたりながら、ただそこにいるのが好きだった。
そうやって流れていく、留めもなく満ち足りた時間そのものが好きだったのかもしれない。今では焚き火もできなくなってしまったが。

火はなぜ人を懐かしい思いにさせるのだろう。原始の記憶という人もいるが、人というものの根元的な孤独が、あのほのかな明るさと暖かさに惹かれて行くのだと思えてならない。
焚き火の、思わず足を止め、手をかざしたくなるような不思議な力は、人であるがゆえの欠落が求める母性なのかもしれない。

こんな話を思い出す。ラジオで聞いた津軽に伝わる「ガンブロ」の話である。

春、北へ帰る雁はその口に枝をくわえて旅立つ。飛び疲れると、その枝を海に浮かべ、その上で羽を癒して、また飛び立つのだそうである。そうして幾日もかけて津軽に着いたとき、その浜にくわえていた枝を捨てていく。

季節が移り、また冬を迎える頃、雁はその浜に捨てた枝をくわえて今度は南に旅立つ。ところが、雁が飛び去ったあと、その浜にはいくつもの枝が持ち去られないで残る。それは、実は、あえなく北で季節を越えられなかったり、力尽きて旅の途中で死んでいった雁のものなのである。

土地の人は、その木を集め風呂を焚き、津軽に再び訪れることのできなかった雁の供養をするのだという。それが「雁風呂」である。

実際には「ない」話であるらしい。

浜辺に寝転がって、焚き火に流木を足しながら、そんな火と命のつながりについて考えてみたりすることもある。何の脈絡もないのかもしれないが、少なくとも焚き火にはこの話に漂うような豊かでしっとりとした郷愁がある、と僕は思わないではいられない。

そんな漠然とした「焚き火」のイメージを頭に置いて、詩を書いてみたことがあった。定時制の自分のクラスの生徒が卒業するとき、彼ら彼女らに当てて書いた「まおまおー」と題する詩である。

出来はいいはずもないが、一読していただければ幸いである。


「まおまおー」

H君の当番日誌はいつもたったひと言
5目7日 だあー
6目20日 みゃー
10月8日 だおー
11月25日 まおまおー
1月30日 にゃむー
恐ろしいほどの意味不明
全く途方もない「無意味」である

しかし僕は
毎回これらの意味不明に付き合いながら
いつしか次をひそかに期待している自分に
気が付いたりもした
そして、「まおまおー」を見るにいたって
稲妻に打たれたように感動し
それから深く考えた
「無意味」は絶対に「無意味」か?
人生が仮に「無意味」でないとしても
人生に「無意味」が確かにある、と

例えば 恋をする「無意味」
また例えば
一本道をまっすぐ行かず
寄り道をしたりまわり道をしたりする
かけがいのない「無意味」

恐らく
みんな たくさんの荷物を背負って
たくさん傷つきながら
たくさんのまわり道を歩いてきた
でも、その分たくさんの風景を知っている
その優しい「無意味」・・・

ちょっと立ち止まって
焚き火にあたっているような
豊かな「無意味」・・・
もしかしたらそれは
生きることそのものの姿なのかもしれない

そして僕は ふと思いついて
M78星雲の辞書を取り出してみた
予期したとおり
そこに「まおまおー」は載っていた
ウルトラマン語で
「俺は俺だという叫び」
を意味していると書いてある

だったら時々
空に向かって思い切り
「まおまおー」と叫んでみるのもいい
変人と思われるだろうが
責任はH君にあって担任にはない

「意味」に振りまわされて
何かを見失いそうになったとき
また焚き火にあたりにおいで・・・


多くは語るまい。みんなたくさんの荷物を背負ってこの定時制にたどりついた。彼らの話を聞きながら、もし僕が彼らだったら耐えられただろうかと考えてしまうことが多かった。
肉体的に、経済的に、精神的に、ギリギリの毎日を、綱渡りをしているかのように生きていた。悩んだり、つっぱったり、泣いたり、笑ったり、何かが起きない日はなかったが、不器用でまっすぐな彼らのあり方が僕は好きだった。恐らく生涯忘れ得ない日々だろうと思う。

出来得れば「焚き火のような人になりなさい」と言ってみたいが、それは彼らにとって、あまりに静かすぎる願いであるだろうか。

「思わず寄り添いたくなるような温かさ」
「無意味であることの豊かさ」

厳しい現実の前では「たわごと」のようにしか響かないこんな言葉が、だからこそかけがえもなく大切に思える時がある。

いつか、火を囲みながら、一緒に一杯やれる日を楽しみにしていようと思う。


■土竜のひとりごと:第133話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?