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第202話:コロナと死のかたち

コロナで休校状態にあった学校は、5月の半ばから一週間の試験登校を始め、5月の最終週から基本的に日常を取り戻した。
しかし、前話で恐れていた通り、一度切れた糸はなかなかつなぐことが難しく、暑さも手伝って、当初3週間くらいはどうしようもない疲れに体が悲鳴を上げた。サロンパスを毎日貼りまくり、栄養剤を飲みまくり、それで何とか一日をこなすといった体。

部活動も6月から再開されたが、インハイも中止となり、代替大会が県レベルで設定されたが、大会が7月に設定されたため、受験生は参加に迷い、それでも出場した3人が7月23日に試合を終えた。
禍は重なり雨が降り続く異常な梅雨で、ほとんど一か月以上雨が降り続いていた。コロナで、長雨で、期末テストとの重なりで、残った選手も満足な練習ができずに現役生活を終えた。

折しも、カミさんのお母さんが体調を崩し、6月半ばからカミさんは実家に帰っていたが、7月14日に亡くなった。91歳。特にどこが悪いというわけでもなく老衰の状態に近かったが、4月に会ったときには「何だか気力がなくなっちゃてね」と言っていた。

娘二人が嫁ぎ、お父さんと二人暮らしをしていたが、7年ほど前にお父さんも亡くなり一人暮らしをしていた。若い時には興銀で働き、詩人の石垣りんが同僚にいたとその様子を教えてくれたりした。穏やかで気遣いに篤い人だった。

介護に関わってくれた人が「こういうコロナみたいな禍がある時には、ふっと気力が落ちてしまう人が多いのだ」とカミさんに言ったそうだが、確かにそういうこともあるのかもしれない。

義母の葬儀は「家族葬」で行った。
義母の姉の息子さん夫妻が僧侶であったため、お経をお願いし、それ以外は通夜はカミさん姉妹夫婦と僕の息子と、わずかの期間ではあったがお世話になった施設の施設長さん、葬儀にはカミさんに従兄が一人加わったが、こじんまりとしたものだった。

7年前の義父の時も寂しい感じがした。通夜は僕ら姉妹夫婦の4人だけ。葬儀にはもう少し親族が集まったが、もう亡くなっていたり、高齢、病気でとても参列ができないとの連絡ばかりが来た。義父は大蔵省に勤務していたが退職後すでに20年以上が経過し職場の人とのつながりも消えていた。

「高齢化社会の寂しさ」と僕が口にすると、カミさんは「でも、母とは1ヶ月ちゃんと話ができ、自分としては温かい見送りができたと考えている」とのことだった。そう、確かにそういう意味ではこうした葬儀の在り方も、それが単なる「儀礼」であるより価値のあるかたちなのかもしれない。

ただ、「死の共同性」という意味においては、僕には「死が小さくなった」という思いがないでもない。

例えば僕の父は葬式を業者の運営するホールではなく、自分の家から出すように遺言した。田舎だから祖父母の時もそうだったが、家の前に花輪が並べられ、朝から組内の人たちが集まって葬儀や「ふるまい」の準備、通夜や葬儀の受付、葬列を組み集落を一周しながらお寺まで行き、読経を聞いたりなど、「死」の儀礼に関する大部分を共に過ごした。

だから、そこには当然「あの人は亡くなったんだ」という共通認識ができる。都会ではありがちな、隣の家でなくなった人があっても、言われるまで1年も気づかなかったとか、孤独死とか、そういうことはない。
死は「共同性」における出来事だったのである。それによって、人は「死」を体験し、ある意味では「死」に馴れ、自分の死がどうやって扱われて行くのかを知る。「死」は理解され、受け継がれていった。

いつか商業主義がそれを壊したと書いたかもしれない。しかし、もっと根底には「他人に迷惑を掛けたくない」という心理が働いている。それらの同時並行の出来事だったと言った方が正しいかもしれない。

それは謙譲の精神かもしれない。あるいは共同性の重くのしかかる関係性からの離脱欲求のゆえかもしれない。いずれにしても、それを代行してくれるサービスが商品として登場し、人の手を煩わせず済むものであると気付いた時に一気に心の軸が動いたという感じであろうか。

今、「家族葬」というかたちがものすごい勢いで定着しつつある。

「死の個別化」と言ってもいい。カミさんの言うようにそれは却って単なる「儀礼」から脱却した家族としての温かい看取りであり、またその一方で、みんなの出来事ではなくなり、「儀式」のかたちも業者しか解らないものになった。

それが「解放」であるのか「喪失」であるのかは僕にはわからないが、現象として死は個別化し共同性から離脱しつつあるのである。

葬儀のために2日だけ休んで職場に戻った。休んだ分の、いや心理的にはそれ以上の仕事が山積みされて、葬儀の翌日も夜の9時まで帰れない。
かつて自分の父が死んだ時は、入試と重なり忙しい時期だったので合間を見て出勤すると「親が死んだのに職場に来る奴がいるか」と追い返された。今はそういう「共同性」も薄れてきた。

死の意味やコミュニティの在り方、そんなこともコロナは再検証させようとしているような気もしてならない。


■土竜のひとりごと:第202話(2020.8)

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