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多様性について考えてみたこと①


LGBTの問題は僕の勤務する田舎の学校にも波紋をもたらすようになってきていて、数年前に「女性の身体を持つが心は男性である」生徒を迎え入れることになった。

学校というところは、最も若い世代が住む空間であるが、世相への対応は概して遅いと言えるかもしれない。一般企業の実情を知っているわけではないが、社会の最後尾を歩いている感じがしないでもない。

保守的と言えばそうも言える。好意的に言えば、それは教育がその本質として社会の動向に過度に右往左往することを拒む性質を持っているからかもしれない。

その生徒を迎える前、受験することがわかった段階から対応策が協議され、LGBTの方を招いて研修会を行ったり、細部にわたって具体的な検討が行われた。

例えば、一例に過ぎないが、こんな検討である。

その生徒はカミングアウトしたいという希望を持っていたため、それを、他の生徒、保護者にどう説明すれば、その生徒が集団の中で孤立せず、しかも一般の生徒がその状況を自然に受け容れられるのか。 

その生徒は男子の制服を着ることを求めていたため、制服を定めた規定から、男子・女子という記述を削除し、どちらを着ても構わない態勢を取った。話し合いの中では、制服廃止の意見も出た。

もっと具体的には、トイレをどうするか?、更衣室は?、男女別になっている体育や保険の授業をどうするか?、名簿に女子にはfというマークをつけているがそれをどうするか?などなどである。

その生徒を受け入れるためには、それまでの学校の「枠」を壊さなければ対応できなかったことになる。言い方を変えれば、学校の「常識」を疑い壊すことから疑うことから始められた。

そう、僕らはいつも「常識」の中にいる。

例えば、僕らが中学生の頃は「坊主頭」が「常識」だった。長い間、高校の野球部も「坊主頭」だった。教員になったころは、名簿も男女別に作られ、男子の後に女子の氏名が並べられていた。生徒の親は「父兄」と呼ばれていた。

そうした「常識」が、時代、社会の民主意識によって、「坊主頭」の強制は廃止され、むしろ他者と差異化するファッションになった。男目線の「父兄」という呼称は「保護者」と改められ、名簿は男女混合の五十音順になった。

だから、その生徒が入学してきたことで、僕らの「常識」に「変化」が生まれた。制服の男女差をなくすことで、この冬にはそうしたジェンダーの問題意識を抱える女生徒も、それとはまったく無縁の女生徒の間でも、スカートを履かず、ズボンを着用する生徒がすごく増えた。

多分、寒いからという理由ではあろうが、少なくとも僕らは「ああ、そういうニーズがあったんだ」ということに気づかされた。それは、こうしたことがなければわからなかったことである。

不思議な感覚であった。地域の学校全般への影響を考えるとまだ踏み切れはしないが、制服を廃止する動きにつながっていけばいいのではないかと思ってみたりする。

多様性ということの意味はそこにある。

僕らは「ある社会」に生きている。それは「ある社会」の定める「常識」に知らず知らずに思考が収められていくということでもある。今まで疑いもしなかった「常識」が疑われることで、もう一歩先の社会が見えてくる可能性がある。

繰り返すが、多様性の意味は、たぶん、そこにある。



ただ、僕は、そうした考え方の広まりや営みを画期的な革新と思いながら、一方で、この「多様性」という言葉に「ひっかかり」を感じている自分を感じたりもしている・・。
(※長くなってしまいそうなので次回に続きを書きます。)


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