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第235話:ほんとうの顔?

去る2月19日は僕の61回目の誕生日だったが、生徒がお菓子をくれたその袋に僕の似顔絵が書かれていた。

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こんな感じに見えるらしい。似ているような気もするし、そうでないような気もする。若く見える?と自分では思っているのだが、最近、生徒にはジジイ呼ばわりされることが多くなった。


「顔はその人を表す」と言うが、それはその人の「人格」が顔に現れるということを意味するのだろう。
僕らは自分がひとつの「人格」を形作るために知見や経験を積み本当の自分を見つけようとしてきた。いわゆるアイデンティティを求めて・・。その生き方が「顔」に現れる。

僕らが若い頃は、本当の自分を求めて、「僕って何?」と問い、「自分探し」を一生懸命にしてきた、気がする。
ただ、その答えは、結局、見つけ得ない。そこで、「得られない本当の自分」を追い求めるプロセスにこそ本当の自分の姿があるのだと解釈を変更してみる必要も生まれた。

「本当の自分」はいるのだろうか?
それを求める生き方が正解なのだろうか?

最近の評論家、思想家の論調はそこから外れつつある。

唯一の本当の自分がいるという考え方は、「個人」を自由を行使する能動主体とする一方で、「内面」によって自分を統括管理し、いつでもどこで変わらない個人として責任を求めた近代社会が要請した虚像に過ぎないのではないか。
不変の「本当の自分」などそもそも存在しないのではないか。
特に、この価値観が激しく揺れ動く社会の中で、それを追い求めるのは難しいのではないか。

僕が本当のことを知る由もないが、少なくとも授業や入試で扱われる評論ではそんなふうに論じられるものが多くなり、授業でもそう教えることが多くなった。

例えば、2016年のセンター試験の評論に土井隆義著の『キャラ化する/される子どもたち』(岩波ブックレット)が出題された。
そこに採られた部分では、「この複雑な社会の中で、子どもたちがキャラを演じ分けるのはやむを得ないことだ」と読める内容が書かれている。

それは「本当の自分」を求め続けて来た世代にとっては、時と場合でキャラを演じ分ける八方美人であってもよいってこと?・・という疑問符であり、それが国公立大学の入試に出て来たという、大袈裟でなければ「衝撃」でもあった。

正確な問題提起としては次のようになるだろう。

価値観が多元化した社会で感じる閉塞感.「優しい人間関係」のなかで排除におびえる恐怖感.ケータイやネット,家庭から学校といった子どもたちの日常は,過剰な関係依存で成り立っている.子どもたちにとって,現実を生き抜くための羅針盤,自己の拠り所として機能する「キャラ」.この言葉をキーワードに現代を読み解く.

岩波書店HP

この本の出版は2009年。2000年くらいからだろうか。「個人の在り方」は明らかに揺らいでいる。以前「女子という言葉」で似たようなことを書いたが、個人の在り方だけではなく、この頃を境として大きくいろんな考え方、価値観が揺らいできたような気がする。

それは次のような時代の背景によるのではないかと思う。
・1986年に始まったバブル経済は1991年に崩壊
・2001年から06年、小泉内閣が構造改革を推進。
・デフレの中でリストラ、非正規雇用の増加、格差の拡大。
・2001年に9.11が、1995年に阪神淡路、2011年に東日本大震災が起こる。

安心の崩壊が人々の心の中にずっしり刻み込まれてしまったと言えるのかもしれない。コンピュータ・ネットワークの影響も大きいだろう。不安の中で、価値観が揺らぐ。
それが、「いい揺らぎ」であればいいと思うが。


顔に話を戻すと、鷲田清一も「自分の『人格』が現われた『本当の顔』などというものは存在しない。常に他者との関係の中で『顔』は存在する」と言う(『顔の現象学』)。
それは、人は常に他者との関係の中で生きるものであって、常に変わらぬ本当の自分などというものは存在しないということである。
でも、その意図は自分であることを放棄せよということではなく、「他者」の存在に目を向けよということであり、「自己」は言ってみれば、「他者」(にとって)の「他者」なのだという考え方である。

本当の自分、変わらない不変の自己を求めて、そこに行き詰まる「個人」という考え方から脱却すべきだという提言なのだろう。平野啓一郎の「分人」という呼び方も参照したい。


例によって蛇足になるが、僕の顔は僕の所有物ではなく、周りの人との関係によって「僕の顔」になってゆく。僕はまだ精神年齢では18歳のような気でいるし、見た目も40代後半に見えると思っているのだが、そうでもないらしい。

4月に迎えた部活の1年生に本当に子どものように無邪気で思ったことを大声でポンポン口に出す女子部員が二人いて、「センセー、うんこあった」とか「タケノコあった!」と大声で報告に来る。帰る時も「さよ・おなら」と言って帰っていく。とてもJKとは思えない。上級生は唖然として「まるで、おじいちゃんと孫が遊んでるみたい」とつぶやくことになる。

何とかしたいとも思うが、一方で「まあ、いっか」とも思ってしまうところに、お互いに「おじいちゃんキャラ」を演じる舞台設定ができあがっていくのかもしれないなどと思ってみたりするこの頃である。


ついでながらもう一枚、違う生徒が描いてくれた僕の顔である。
ちょっと歪んでいる。人格が・・・?


■土竜のひとりごと:第235話


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