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第39話:相互理解

異文化理解と言えば大げさだ、異文化は身近にもたくさんある。
例えば結婚。愛する人と結ばれて、幸せな日々と思いきや、それぞれの背負ってきた文化はすぐさま対立となって現われる。
昔の人はよく言ったもので、結婚とはまさしく「異文化の衝突」である。結婚自体が交通事故みたいなものだからそこに摩擦や衝突が起こらぬはずはないわけで、四半世紀を結婚前までに過ごし、その日々に培われたそれぞれの「文化」が、結婚という社会的な結び付きによって、そう簡単に融合するはずはないのである。

例えば、味噌汁に入れる茄子。あなたは輪切りにする?縦に短冊状に切る?
そんなことでモメナイと思うかもしれない。
例えば、あなたは箸立てに箸を挿すとしたら、箸先を上にする?下にする?
上にすれば手で触るから汚い?下にすれば箸立ての底に当るから汚い?
どちらも言い分として正しい。今では核家族が主流だから箸立ても使わないかもしれないが。

例えば、どうでもいいことだが、イチゴに牛乳と砂糖をかけ、それをスプーンで潰してイチゴミルク状態にして食べるとおいしい。高校生に言うと「そんな食べ方はしない」と言うが。
その時、僕はイチゴに牛乳をかけてからイチゴを潰す。イチゴから出てきた赤い果汁が牛乳の白に溶け出していく様子が美しい。しかしカミさんは、それでは手が汚れると言って、イチゴを潰してから牛乳を入れる。
僕はグチャグチャになったイチゴが何だか可愛そうではないかと思う。

くだらない?と思われると思うが、そういう小さな食い違いが数限りなくあるんだという認識が、案外、大事なんだと思う。


例えば「中国」と聞いた時、何をイメージするだろう。南洋への軍事進出、ウイグル自治区での人権問題、途上国のインフラ整備による支配拡張、香港の民主運動弾圧、台湾への軍事侵攻への懸念など。
でも、中国の何を知っているかと言うと、専門家でもない僕は、よくわからないと答えるしかない。

授業では漢文や漢詩を扱うが、例えば漢詩を扱って、その意味はだいたいわかったとしても、それで本当に分かったかは難しい。
だいたい中国語は「音読」だが、日本はそれを「訓読」するから、押韻と言っても、平仄と言っても、本当の理解は難しい。詩の内容も、中国の人が瀬戸内海を見て「日本にも大きな川がある」と言ったとかという話は有名であるが、山でも川でも日本の山川をイメージするなら、その理解は誤ったものに過ぎない。

例えば、こんなことがあった。

王維という詩人の詩(送元二使安西)に次のような詩句があり、春雨に洗われた春の柳の若々しい緑の鮮やかさをよく伝えている。

渭城いじょうの朝雨軽塵けいじんうるお
客舎かくしゃ青青柳色りゅうしょく新たなり

(解釈)
渭城の朝の雨は軽い土埃をしっとりと濡らし、
旅館の前の柳は雨に洗われて青々とひときわ鮮やかである。

それでよいのだが、ある時、中国に詳しい同僚が、
「これは黄砂なんだよ。黄砂で町全体が黄土色になる。雨がそれを洗い流すと色彩が一気に戻るんだ」と言った。
何度もこの漢詩を授業で扱いながら、初めてそんな視点を得て「そうなんだ」と、それこそ目が洗われるような思いがしたことがあった。
ただ僕には、その同僚の言葉が正しいのかどうかさえもわからないのである。
そんな例は枚挙にいとまない。

だから、理解できるつもりになってはいけないということなのだろう。

しかし、相互の理解を成り立たせるためには、その国に移住しその文化を身につけなければいけないかと言えば勿論そうではない。僕はイチゴの食べ方を異にするカミさんと夫婦であはっても同体になれるわけではないし、理解というものに同一なる状態が必要であるなら、古典はおろか、自分以外の他人の書いたものなど全く理解できないことになってしまう。

そうすると、矛盾と思われるかもしれないが、相手を理解するためには、相手と自分は違う、絶対に理解できないのだという前提に立たなければいけないということになる。
恋人たちは「君のすべてを知りたい」などと言ってみたりするが、それは世迷い言でしかない。結婚したと同時にイチゴの食べ方で対立する。

ただ、それは理解放棄ではなく、それがスタートラインだということであって、そうでないと「同一」なる状態を得るために、相手に自分を同化させようとして自分を見失ったり、相手を自分に同化させようとして対立したりすることになる。むしろ後者の方が多いだろう。

大事なのは「話し合う」ことかもしれない。でもむしろ、その前に「聞く」ということかもしれない。
妻の夫への不満の原因は、たぶん、聞いてくれないということにあるのだそうだ。この点、付き合っているときでさえろくに連絡も取らず、結婚の条件として出された禁煙の約束も反故にし、仕事ばかりしてほったらかし状態で何十年も過ごしてきた僕は深く反省しなければならない。
イチゴミルクで
自分の話を聞いてくれない人と何かを話そうという気にはならない。無視するか、別れるか、それができなければ、闘うか、である。

ことばを持つ人間は闘う前に、ことばを駆使してそれを防ぐ必要がある。

あちこちで火種がくすぶる国際情勢が戦争への道につながることは、何としても避けなければならない。

(土竜のひとりごと:第39話)

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