第174話:「絆」について考えたい
これは2016.11に、国民投票でイギリスのEU離脱が決まり、アメリカでトランプ大統領が当選した時に書いたものです。
「絆」という言葉がある。
「これを何と読むか?」と尋ねたら、「バカにするな」と叱られそうなくらい当たり前に誰でもが知っている言葉である。
そう、「きずな」と読む。
いい言葉だ。平たく言えば、「人と人とのつながり」くらいの意味になる。そんなことも今更改めて言う程のことでもなく、恐らく今の高校生ならば誰もが「人との絆を大切にしなさい」と言われて育ってきたのではないかと思う。
特にここ数年、この言葉は歌や映画のタイトルにも使われ、一種「流行」の様相を呈しているが、この言葉が僕らの意識に強烈に浮上したのは、たぶん2011年の東日本大震災の際に(いや19995年の阪神淡路大震災の時もそうだったのかもしれない)未曽有の恐怖に直面し、壊滅的なダメージを受けた被災地を日本が一丸となって支援するという復興への象徴的なキーワードとして使われたからだと思う。2011年の「今年の漢字」にも、この「絆」は選ばれている。
ただ、この言葉は本来そうした意味ではない。
日本国語大辞典を引くと、「馬、犬、鷹などの動物をつなぎとめる綱」とある。いくつかの語源説が載っていて、くびつな(頸綱)、ひきつな(引綱)の上略、きずな(騎綱)などとあるが、いずれにしても「動物を逃げないようにする綱」がもともとの意味であったようである。
したがって「絆」とは本来、「自由を奪う束縛」という意味を持つ言葉なのである。
同辞書には②として「人と人とを離れがたくしているもの。断つことのできない結びつき。ほだし。」とある。
前の意味の派生であろう。「断つことのできない結びつき(恩愛)」と言えば、今の語感に近い感じもするが、実際にはそうではなく、マイナスの語感を背負った言葉である。
古典では「絆」は「ほだし」と読まれ、例えば『源氏物語』で光源氏が出家を望みながら最愛の妻である紫の上が「ほだし」となって出家できない、そういう文脈で登場してくることが多い。
愛する者は、出家への足枷、足手まとい、現世への束縛なのである。
動詞として「情にほだされる」という使い方も、「自分の意に反して縛られる」というニュアンスであろう。
現在強く意識されている「つながり」というプラスの語感は、勿論この意味からの派生であるが、「束縛」から「結束」というニュアンスへの、マイナス・プラスが逆転するようなこの変化は実はごく最近のことであるらしい。
ネット上には、これを朝日新聞の全文検索システム『聞蔵』を使って(勿論それ以前からの使用例はあるが)、1980年代、あるいは本当に大衆化してきたのは90年代とするブログの分析がある。
「そんなに新しいのか」という驚きを感じたりもするが、確かに、人と人とのつながりが希薄になり、その空洞を埋めるように「絆」が人と人をつなぐキーワードになったと考えるのは筋が立つかもしれない。その大きなきっかけになったのが震災であったのかもしれない。
言葉というのは面白いものであると改めて思うが、ここで採り上げたいのは言葉の変化ではなく、「つながりは束縛なのだ」という事実である。
逆説を弄しているわけではなく、いま見てきたように言葉の成立過程からそれは宜えることであるし、僕らの日常を考えても、家族、夫婦、親子、友達・・そうした「絆」は「つながり」であると同時に「束縛」でもあることが実感されよう。
愛憎相半ばする状態の中で、人は人間関係を取り結んでいる。子供は親の愛情や接し方を時に鬱陶しく思い、恋愛を経て結婚した途端に生活という日常の役割や営みに縛られる。「一億円当たれば辞めたい人ばかり」などという川柳がかつてあったが、家族を養っていくためにはどんなに嫌なことがあっても仕事にしがみつかなくてはならない。「絆(つながり)は束縛なのである」。
しかし、僕はだからと言って「所詮、人はつながれない」という悲観論を呈しているのではない。
ただ、人との「絆(つながり)」を創ろうとする際に、それが同時に「束縛」を背負うことだという認識を持つことが必要なのだと思う。
お互いが WinWin で常に Happy でいられるような「絆」をイメージしても、それは恐らく「絵に描いた餅」でしかない。
「つながり」たいのであれば、そこに犠牲や忍耐、痛みを伴うことを忘れてはならない。
いま、世界はここまで推し進めてきたグローバルが行き詰まり、極端なナショナリズムや保護主義に走ろうとしているかに見える。とても危険な情勢である。
誰もが「まさかそんなことはあるまい」と思っていたイギリスのEU離脱。
そして、誰もが「まさかそんなことはあるまい」と思っていたトランプアメリカ大統領の当選。
EUはある意味では壮大なグローバル化の実験であったと言える。
また、アメリカは元々が移民の国であり「人種の坩堝」と言われる中で差別問題を抱えながらも、そのキャパの広さによって個性的で自由な市民社会を演出してきた。
グローバル化による格差の拡大、移民政策に対する不満、かつての自国のプライド・・苛立ちと不満が理念を越えて「まさかそんなことはあるまい」という結果を導き出している。
それだけではない。世界各地で極右傾向の首脳の誕生。戦闘集団の台頭と拡散化。中国や北朝鮮の軍備拡張。解決不能に陥っている中東問題。日本も憲法改正を足掛かりに軍事増強を図ろうとしていると見える。
何かのはずみで「まさかそんなことはあるまい」と思っている世界規模の戦いが起こらないとも限らない。それだけの火種は至る所にくすぶっているのである。
僕らはだから、いま、明確に立ち止まる必要がある。グローバル化は疑いもなく必要なことである。これだけ情報システムの発達した世界に、小さな桃源郷のような社会を作って孤立することはできない。
しかし、グローバル化を目指すのであれば、越えなければならないいくつもの壁があることをここ数年の情勢が示している。
例えば、格差の拡大を是正するシステムを構築する必要があるだろう。
孟子は「恒産無くして恒心無し」と言ったが、一部の富裕層が富をさらに蓄積しているのを横目に見ながら明日の暮らしが見えないほどの貧困に喘いでいる人々に、豊かな心を持てと言うのは困難である。
また、自分の国や地域、民族、文化、あるいは自分自身が何であるのかをもう一度確認する必要があるのだとも思う。アイデンティティの再確認、あるいはローカリティの復権である。
しかし、それは閉鎖的なナショナリズムへの指向を意味するのではなく、グローバル化の中でも見失われない確かな自己の骨格を再確認する作業であろう。極端な保護主義も危険だが、全てにおける一律なグローバル化も弊害でしかない。
どこに自他の接点を見出し、どこに境界線を引くか。
自国、自民族、自文化、自己の在り方そのものが問われているのだと言える。
それを問う姿勢のベースに、僕は先に書いた「絆(つながり)は束縛である」という認識を置く必要があるのだと思う。
机上の空論なのかも知れない。堅苦しく空しい議論かもしれないが、あえてこんなことを書いてみたのは、君たちを戦場に送らないためである。
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■土竜のひとりごと:第174話
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