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第23話:おじいちゃんと水洗トイレ

今はなき僕のオジイチャンがその昔僕に語ってくれたところによると、オジイチャンは、若かりし頃東京に出掛けた際、初めて水洗トイレというものに遭遇したのだそうである。
オジイチャンの話そのものは「俺は驚いた」というエラク簡単なものだったから、僕が想像でその話を補わなければならないのだが、多分その時のオジイチャンの驚きとは、水が流れるというような抽象的なものではなく、「この便器には底(穴)がない」というひどく素朴な困惑ではなかったかと僕は思う。

もうご存知ない若い方もいるのかもしれないが、昔の便器には後方に大きな穴があり、用を足すと便が穴に吸い込まれ、下方でボチャンという音が立ったりなんかする「汲み取り」式の便所だった。
子供の僕には難点はいろいろ感じられたが、オジイチャンにしえみれば、穴の中の暗闇は自分の汚物をつつがなく葬る「闇」であったのかもしれない。

ところがオジイチャンがこの時目にした便器にはそれがなく、前のほうに小さなくぼみがあるだけ。用を足そうとして便器を見た瞬間、オジイチャンの頭の中を、例えば、俺の便はどこかにきちんと処理されてくれるのだろうか、そのままここに残って存在し続けることになるのでは、などという不安が掠めていったとしてもそれは仕方のないことであっただろう。

考えてみればトイレというのはほとんど完璧な密室であり、そこにどんな驚きがあろうとあるいはどんなドラマがあろうと、それらは一切が公になることはない。ひょっとしたら今だに洋式トイレの使い方について悩んでいる人がいるかもしれない。
まさかと思う方もいるかもしれないが、とある店のトイレで洋式トイレの正しい使い方について「便器に乗って用を足さないでください」と貼り紙をしているトイレや、こともあろうに男子用の小便器に「ここで大便をしないでください」という神が貼ってあるのを見たことさえある。
かがんだまま煙草を吸っている高校生がいるかもしれない。あるいはトイレットペーパーで折り紙をしている人がいるかもしれない。

そうして考えてみると、トイレという密室の中で力んだり迷ったり楽しんだりしている人間の姿というのはユニークにして奇想天外であり、それらについて想像を巡らしてみるのもなかなかに楽しいことではないかと僕は思ったりする。

水洗トイレが常識となった現在では、こんなオジイチャンの驚きはもはや古典的な過去の出来事でしかなくなってしまったわけだが、一方で僕らも、年々進歩し、あるいは洋化してゆくトイレに直面し、それに初めて遭遇した時は驚きと逡巡を隠せない。
例えば、トイレに入った瞬間に蓋が自動で空いたりする。排泄を終えて水を流すレバーやボタンが見つからず、どうしようと狼狽えて腰を浮かした途端に自動で水が流れたりする。
事がシモの秘められた部分の問題であるだけに妙な緊張感も付きまとったりして、オジイチャンの当時の困惑に対して弁護してみたくなったりする。

オジイチャンは決して語らなかったが、そんなふうに僕が想像してみるのは、実はその時オジイチャンは逆向きに構え、前方の小さなくぼみに懸命に自分の便を落とそうと試みた、それが真相だ、という話を後にオフクロから聞いたからである。

オジイチャンにとってこの「未知との遭遇」は、それまでオジイチャンが常識としてわきまえていたキンカクシというものの文字どおりの意味さえも覆さずにはおかないほど衝撃的なものだったのである。

(土竜のひとりごと:第23話)

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