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第129話:校則で拘束

息子がまだほんの小さい頃、こいつと遊ぶのがエラク大変だった。
「かくれんぼしよう」と言うので「かくれんぼ」をするのであるが、狭い家のこととてそんなに隠れる場所があるわけもない。子供が隠れそうな所などすぐに分かってしまう。
分からないふうで遊んでやるのも最初のうちはそれなりに楽しめたりもするが、こいつが何回やっても「しよう」「しよう」と言うのであって、これを延々とやっていると頭が溶けてしまいそうな疲労を覚えたわけである。

しかし、疲労感の原因はそれだけではない。更にそれを増幅させるのは彼が隠れん坊の何たるかを理解していないことだった。
僕が巧妙に隠れて見つからないとカミさんの所に行って「トータン、どこ?」と聞き、しまいには隠れている僕に向かって「トータン、どこ?」と叫びまわる。
そのうち僕が隠れようとする後をついてきて「どこ、隠れるの?」などと聞きながら離れようとしない。
かと思えば、自分が隠れているとき僕がそばを通りかかると、驚かすつもりだろうが「わっ」とか言って自分で出てきてしまう。
全く隠れん坊にならないのである。幼稚園の手前、彼はまだルール無用の世界に生きていたのであった。

だから、遊びにもルールが必要であると僕は「かくれんぼ」のたびに深く思ったのであるが、一方でルールというのは非常に評判が悪いものでもある。
「こうしたい」のに「そうさせない」わけだからそれは当然のことなのだが、時に確かに非常に傲慢に僕らの上にのしかかってもくる。

世間では訳の分からないルールもたくさんあって、学校の校則などは格好の餌食になり、やり玉に挙げられる。新聞なんかにも「おもしろい校則」がよく取り上げられるが、スカートの丈は膝下何センチとか、ある女子校では1メートル以内に男を近づけてはいけないというのもあるらしい。
そういう「おもしろい校則」に共通する特徴は「具体性」であって、やたらにしっかりとできてしまっている。

ちなみにいくつか紹介してみよう。
・発言、発表するときの挙手は右腕を70度前方に挙げ、五指をそろえて手のひらを前に向けること
・消しゴムの形は直方体であること
・通学用の運動靴のひも穴は6個であること
・異性と会話する場合は「会話用紙」を提出して許可をもらうこと

直方体・会話用紙、思わず、「そこまで言うか!」と感動したくなる。
最近台湾かどこかで女子の下着の色まで規定した校則ができたというニュースが話題になったりしたが、調べてみると日本だって「白」と規定している学校が結構あるようである。
でもどうやって見つけたり指導しているのだろうか?「君は今日は水玉だから校則違反だ」などと注意を与えている自分は想像しただけで不気味である。なかなかどうして、ご苦労なことではないか。

ご苦労といえば、こんな話を聞いたことがある。
以前に新設3年目の学校に勤めたことがあった。若々しい活気にあふれた学校だったが、ゼロからスタートしてひとつひとつを作り上げていく途上にあった。創設期からこれに携わった先生たちの苦労はなかなかなものであったらしく、いろんな話を聞かせてもらったが、やはり校則を作るのには難渋したそうである。

例えば女子の髪をしばるのは「黒か紺のひも」と決められていたが、その表現に落ち着くまでには苦難の道があったと言う。
色について言えば、
「なぜ茶ではだめなのか」とか、
「黒はいいが、ちょっと赤みがかった黒はどうする」とか、
「それがいいならもう少し赤みが強かったらどうする」とか、
延々と考えていくと「黒がしまいには赤に見えてきて、黒って何だか分からなくなるんだ」とその人は言っていた。
「ひも」という表現も実に微妙で、
「幅が何センチならリボンなんだ」とか、
「ひもの材質はどうだ」とか、
「苦労したよ」とその人は言っていたが長い長い時間を費やして議論したらしい。

そういう「ご苦労」がなぜ生まれるのかというと、ルールというものの性質上、それは「例外を許さない」ようにしなくてはいけないと考えるからである。
そもそも髪をなぜ結ばなければいけないかもわからないわけで、髪を結ぶひもは別に節度のあるものなら何だっていいと誰でもが考えているわけだが、中には真っ赤な大きなリボンをつけてきたり、バラの花飾りを付けてきたりする生徒もいる。時代劇に出てくるようなカンザシをしてくる場合だって想定できる。あるいはバラセンでしばってくる少女がいるかもしれない・・。

そう考えると、どこかでラインを引かなくてはならず、またそのラインはあらゆるケースに対応でき、したがって誰に対しても公平でなければならない。
いちいちのケースに、いちいち対応するだけの余裕が日々にはないし、「なぜあの子がよくて私はダメなの」という不平が出ないようにしなくてはいけない。

だから「例外を許さない」ために細かくなる。何センチ、何度、何個、何色、・・甚だしく、また愚かしいほどに「具体的」になっていくわけである。
「髪を結ぶひもは幅4ミリ以内、色はJIS規格○○番の黒のみとする。材質はゴムまたは布製のものとし、無地、無飾のものを使用する」などとしたとしたら、確かに分かりはいいが、それはまた全く訳の分からない状態でしかないと言わなければならない。

「木を見て森を見ず」、細部に忠実になると全体を見失うのは人間の通例で、そういうときには「基本に返れ」とつぶやいてみるのがいい。

ルールの基本は恐らく、詰まるところ「人を傷つけない」ということであろう。「マナーの感覚」と言っていい。必要な基本は「漠然とした正しさ」なのであって、それは「人間的な生き方」とも言える。
ルールだけでなく、僕らは立場や常識や数字にとらわれて、何が基本なのかをつい忘れてしまいがちになる。大切なことは何であるのか、時に問い直してみることが必要なゆえんであろう。

ただ、こんなふうに書くと校則反対者は諸手をあげて、だから校則なんていらないんだと喜ぶかもしれないが、そうでもない。
マナーの感覚や漠然とした正しさは自然と備わるものではないから、それを得るためには小さいころからきちんとした「しつけ」が必要である。人間が野獣ではなく杜会的な動物であるためには、どこかで「訓練」を受ける必要があって、それは家庭であったり、職場であったり、自分自身の挫折の体験であったりする。
学校ばかりに依存する体質が学校の規則を訳のわからないものにすると言ったら語弊があるだろうか。

「誰が悪い」という言い方を人はすぐにするが、人の責任ばかり追うことを考えるより、まず自分の責任は何かということを考えた方がいい。そういう想像力自体が実は「マナーの感覚」そのものなのだと思う。


「事件は会議室で起こっているのではない」とは「踊る大捜査線」の中の文句だが、現場は「いたちごっこ」である。
枠があればはみ出したい年齢であって、そのくらいの方が将来が楽しみなどという言い方がされたりもする。スレスレをきわどくかすめようとし、隙があればそこをかいくぐろうともする。あの手この手で飽くなき挑戦を仕掛けてくる。

教師も負けてはいない。
聞いたところによると、ある人は修学旅行の時、タバコの自動販売機の裏に一晩中隠れて明け方にやってきてタバコを買った生徒を御用としたそうだ。
しかしまた、その捕まった生徒が卒業してから学校に来て「先生、あのときは見事に捕まった」などと本当に楽しそうに語り合ったりするから、こうなるともう何が何だか分からない。
人間の間のことは理屈では統べ得られぬ世界であって、神様が我々を適度に遊ばせているとしか思えない。

どうせ遊びならお互い心が荒まないように「遊びのマナー」を守って、人生の「かくれんぼ」や「いたちごっこ」を楽しむ気持ちが大事なのかもしれない。

■土竜のひとりごと:第129話

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