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第193話:高校生に語る情報論

※タイトルどおり、国語の授業で情報化に関する評論を読んだとき、併せて生徒に話す内容をちょっとエッセイ風にまとめました。そのつもりでお読みください。

デジタルタトゥー

SNSでトラブルになった経験はないですか?
ネット上にある情報やメッセージの弱点は大きく言って二つ。責任の所在が明確でない匿名性と、紙などに固定されない書き換え可能な情報であることにあります。責任が問われなければ何でも書けますよね。
昨今、ネット上でのヘイトスピーチの問題が絶えません。嘘の情報を意図的に流し拡散させるといった情報操作も行われています。誤った情報やプライベートな情報を流されることで、個人が傷ついたり、大統領選など政治が左右されたりもしています。

今更言われずとも知っていると思いますが、昨今、フェイクがすごいことになっています。一度流れると、拡散されてもはや修正が効きません。これをデジタルタトゥーと言います。身に覚えのないでっちあげが刺青のようにその人と履歴として刻印されてしまうわけです。

他人の喋っている動画にAIが別の口の動きを写し込んであたかも本人が話しているかのように細工したり、AIが指示した動画を作り出すようにもなっています。この先も生成AIの進化は続くでしょうが、それに伴いディープフェイクもフェイクであることを見破れないほど精巧なものになっています。

犯罪の捜査に防犯カメラや車載カメラの映像が証拠とされることが普通になっていますが、それらがフェイクであるとすれば、動かぬ証拠自体が犯人の無罪を立証することにもなりかねない状況です。

情報による管理社会

情報化社会は別の視点で観れば、膨大な個人情報によって個人が管理される社会です。しかも、本人が意識することなく個人情報は収集され蓄積されていきます。例えば検索履歴。旅行や不動産情報を検索すると、いつの間にか検索画面にその種の広告が貼られていたりします。どこまで個人を特定できるのか僕は知りませんし、そういうものは自動応答なのでしょうが、なにか誰かわからぬ相手に自分をつかまれている、そんな不気味さを感じます。

そんなことが山ほどあります。
町を歩けば防犯カメラに自分が記録されます。学校へ来るまでの間、どこで自分が防犯カメラに記録されているか意識したことはありますか?
店でクレジットカードポイントカードを使えば、その購買履歴の情報はマーケティングの恰好の資料として記録されていきます。
コロナ禍で人流のニュースがよく報道されますが、それはスマホの位置情報から割り出されているものであって、知らないうちに居場所は誰かに握られていることになります。迂闊に変なところに行けませんね。

あらゆるデータが無意識のまま収集され、消えることなく蓄積され、莫大なビックデータを作り上げる。過去に遡って個人が管理され、意図的な操作で本人以外のバーチャルな個人を作り出すことも可能な状況にあるのが今の社会です。

数年前、企業の採用にそうしたデータが使われる可能性が出てきたというニュースを見ました。膨大なデータから個人に関するデータを収集し、人物を判断、採用を決めるシステムを模索する動きがあるとのことです。
なんと恐ろしいことでしょう。「18歳の夏にネット上であなたはこういう発言をした」ということが一生消えないデータとして、人間関係においてなら修正可能な発言でさえ、その人を縛るものにもなりかねないということになります。

勿論、それを拾い出してくるのはA I。AIは僕らをどこに連れて行くのでしょう。こいつとの付き合い方を考えることは、これからの人類の大きな課題です。いいことばかりではありません。


「正しい情報」は存在しない

溢れる情報がありながら、そのどれが正しいのかを見極めることは困難です。基本的に「正しい情報」というものは存在しません。
情報の正しさとは、情報源への信頼によって成り立っているだけです。隣の席のA君と後ろの席のB君が違うことを言ったとき、そのどちらを信じるかは、あなたがA君とB君のどちらを信用しているかによるでしょう。

かつて図書館に勤務していたとき、調査依頼に対する回答はすべて図書館資料をその根拠として提示しなければいけませんでした。
ネットを検索するときも、国go.jp、大学研究機関ac.jpをドメイン指定して検索することが求められましたし、国や研究機関の発信した情報とかデータベースとか、あるいは著名人の言葉であるとか、そういうことが情報の正しさの根拠になるわけです。

しかし、本当に、例えばNHKなら正しいかというと、それはわかりません。みなさんは、日本って正しい情報が伝えられている国だと思いますか?
国境なき記者団(ジャーナリストたちが言論自由擁護のために作った組織)が世界報道自由度ランキングをつけていますが、2021年、日本の順位は調査対象の180国中71位でした。
森友・加計問題、自衛隊の日報問題、桜を見る会、及びそれらにまつわる文書の隠蔽、改ざんなどを考え合わせると、日本が情報において開かれた国ではないことが分かります。

また例えば身近なところで言えば、ウィキペディアを使ったことがあ流かと思います。
何か調べると、だいたい出て来て欲しい情報を教えてくれます。確かにとても便利な事典ですし、精度もそれなりに高い。ですが、基本的にはみんなが書き込むことによって成り立っている事典ですから、絶えず更新されて固定されることのない情報であるわけです。
一度、ウィキペディアのページの右上の履歴表示のタグを見てみるといいと思いますが、例えば何か大きな事件や戦争が起こると、その関連の事項の書き換えがものすごい速度で膨大な量で行われていることがわかります。
一昔前、大学生がレポートや卒論に、そのままコピペしたなどということが問題になりましたが、ネット上の情報は自分で再検証する必要のある情報源と考えなければいけません。

情報は操作されている作られているという前提に立ち、各個人が、様々な経験や知見を蓄積することで、「正しさ」を見定める必要があります。


正しい批判意識

他人が与えてくれる情報に依存し、自分の判断・直観を大切にしない、そういう体質を作ってしまうと、例えば情報が混乱したり、遮断したりしたときに、どうしていいかわからず言いしれぬ不安に陥ってしまいます。
そのとき、声の大きい人、都合の良いことを言ってくれる人に、何の判断もなくなびいてしまう、そういう心理につけ込んで民衆を扇情的な言葉で愚衆に変え、過激な行為に導く為政者が歴史には何人もいました。
例えばポルポトとか知っていますか?ヒットラーはその代表でしょう。しかし、彼らは彼らは単なる歴史上の人物ではありません。今も多くの「ヒットラー」が存在しています。

情報に溢れた時代でありながら、本当に多様な情報に接しているかは疑問です。ネット検索や電子辞書は欲しい情報をピンポイントで与えてくれますが、それは点としての情報でしかありません。

単純な話ですが、かつては辞書を引けば、欲しい情報以上の情報に自然に接することができました。その項目もそうですが、横並びに他の項目も自然と目に入ってきます。また、同じ分野の様々な本を読み、様々な人と交流してその意見に接すれば、そのことに関して様々な考え方や視点があることがわかります。

もう一つ単純な例を挙げると図書館では毎日、朝、書架点検をしたのですが、その時、本のタイトルを見るだけでも「こんな本・分野・目の付け所があるんだ」ととても面白いと思いました。

そうしたありかたはピンポイントで欲しい本を検索しネットで買うのとは全く違ったものです。情報は線や面でとらえ、多角的に収集し分析し整理される必要があり、そうしなければ情報能力は減退してしまいます。

本を検索すると、この本を検索した人はこんな本も見ています、みたいな表示が出てきます。余計なお世話だ、自分で探すよと思ったりするのですが、グーグルはその人の検索履歴から、その人に合った情報をフィルターにかけ提供するサービスを行っています。でも、自分に心地よい情報だけを手に入れても、見識の世界は広がりません

便利さがリテラシーの後退を招く方向性を歩んでいるのではないかと疑ってみる必要はあるでしょう。

こうしたリテラシーの後退は、権力にとって好都合な状況です。かつて、一億総愚民化などという言葉がありましたが、権力の横暴に気づけない批判意識のない人間しかいなくなってしまえば、権力によって我々はどこへ導かれるかわからない状況を生み出してしまいます。

最後に

情報化社会という天使と悪魔を併せ持つ、その落とし穴に嵌らぬようにしなければならなりません。
そのためには、本を読み、人と交わって自分の「知見」を深め、自分の足で動き、肌で問題を感じる「経験」を重ねることが大事です。自分を深めることだけが、より正しい情報の選択の可能性を担保します。
みんなが「右だ」と言ったとき、あるいは「右向け右」をした時に、「いや、違うのではないか」と考えられることも大事なことだと思います。


悲しいことですが、情報に正しい情報はなく、作られ、操作されている、それをまず疑う知見と経験を持つことが現代における知性であると言えるかもしれません。


■土竜のひとりごと:第193話

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