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旅のおわりに。

はじめに

怒涛の1ヶ月が終わった。長かったといえば長かった。短かったと言えば短かった。何故ならば、今から1ヶ月前を思い出すには少々記憶が遠すぎるからだ。密度の濃さが時を長くして、しかしこれだけの時間が1ヶ月で過ごせるのかと思うと、1ヶ月という時間の可能性を見いだせる。振り返る間も無く、1ヶ月という時間を全力疾走してしまったから、今ここでゆっくりと振り返ってみたいと思う。もちろんぶっちゃけた話も含めて。

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ありがたいことに、このnoteを通してサポートしていただけたこともあり、カフェ代を捻出することができました。しかも、スターバックスに15回程は行かせていただけるほどに。私の拙い文でも応援していただけていること、この場で改めて感謝したいと思います。本当にありがとうございます。

おかげさまで優雅な、整った環境でじっくりと書いていたら12,500字超になりました。自分でも想定外の分量です。長ければいいと言うものではありませんが、これ以上短く、は何度読み返しても無理でした。全部読んでもらえることは本望ですが、特に「帰国」「これからのこと」「おわりに」の後半がおすすめです。おすすめって言い方どうなんでしょうね。言い直します。特に、読んで欲しいところです。

多分、私は自分に自信がないから、一生自分の書く文を「拙い」という表現を使ってしまうと思うのです。でも、これは決してネガティブではなく、常に向上心を持ち続けたい、今の時点で満足しないぞ、という風に変換してもらえたらと思っています。拙いと言えど、プライド持って文字を綴っていくという思い、覚悟だけは体育会系出身です。ちょっと意味わからないですね。あはは。

この挑戦を通して得た私の心情が少しでも多くの読者の方にクスッとしてもらえたり、気持ちが寄り添えていたり、挑戦する一歩の勇気になったり、このチャレンジにおいて爪痕ならぬかすり傷の一つでも残せたという記録となりますように。

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出発前の無気力時間

5月末に、会社を辞めて、憧れのニートがはじまった。会社を辞めた時は燃え尽き症候群だったのか、顔に蕁麻疹が出るような謎の体調不良に襲われ無気力も無気力、意欲迷子、自分をコントロールできないくらいなぜか落ち込んでいた。でも抗ったところでHP0に変わりはない、私は眠りたいときにたっぷり眠って自分を甘やかすことを選んだ。そうするとエネルギーも貯まるのだろう、ちゃんと私は帰ってきた。

さぁ、はじまるぞ、そんなワクワクした気持ちは徐々に大きくなり、出発日が待ち遠しくなるまでに回復していた。大きな赤いザックは大学一年生の頃からの相棒だ。リュックに夢を詰め込んで、なんてメルヘンな表現があるけれど、パッキングをしているのに夢中な時間は好きだ。これを次広げる時は海外に着いているんだなと。この洋服たちをきて、海外を私は歩き回るんだなと。そして「シャンプーこれだけで足りるかな」消耗品への不安は消えることなく、出発の日のアラームがなった。さぁ、はじまるぞ。

1週目ーエッセイストとしてのはじまり

大学生の頃、1人で海外へ向かった時はとても可愛がられていたと言う自覚がある。勘違いしすぎかもしれないが、ジュニアパイロットの如く、機内では、CAさんにも、隣に座った外国人にも気にかけてもらっていた。外に出ても物珍しいのか、大きなリュックを背負った女の子に街の人たちはとても親切で、バスに無料で乗せてくれたこともあった。しかし、もう私に構ってくれる人はいなかった。単に年齢を重ね、子供に見られなくなっただけなのか、社会の荒波に揉まれてリフレッシュ休暇に行くような顔をしていたのか、答えはわからないけれど、少しばかりつまらないなーなんて思いながら私は1人日本から飛び立ち、パリで空港泊をしてチェコへ向かった。

ダイスケさんとは2度目まして、タクローさんとは初めまして。海外で旅をするのにこんな出会い方はなかなか経験する人は稀だろう。「おっさん」とくくるには失礼かもしれないが、私よりも10歳以上年齢が上の男性2人と合流して私の旅は始まった。私がこの2人と旅をしても大丈夫だと判断した理由はただ一つ、2人とも既婚者だったこと。理由をつけることはできないし、結婚しているかしてないかをステータスとして測るのはきっと間違っているのだけれど、仮にどちらかが独身だった場合私はここに参加することはなかっただろう。ただただ「2人とも奥さんいるから大丈夫」と言うなんの大丈夫なのか分からない言い聞かせをずっとしていたのは今だから言える話だ。

失礼極まりない警戒をしつつも、2人は暖かく迎え入れてくれた。2人で旅のリズムが出来てたであろうに、居心地の良さはすこぶる良かった。いつも一番でシャワーを浴びさせてもらったし、ベッドはいつも一番大きいのを使わせてもらっていた。「気を使わなくていいよ」の一言をまんまと受け取り、気を使わない環境を整えてもらった。

動画を撮影しているタクローさんからは、出発前からたくさんのノウハウを吸い取ろうと決めていて、ついた初日から質問攻めだ。素人の質問にも丁寧に答えてくれるし、「期待されてる!?」なんて浮かれてしまうほどのアドバイスまでくれる。たった1ヶ月、されど1ヶ月、成長は自分ではあまり分からないのだけれど、多分きっと教わったことを意識していたのだから、ただの趣味から人に見せる、魅せる写真へと変わっていけるのだと思う。タクローさんとは違う世界を切り取ろう、なんてはじめは思ってもいなかったのだけれどのちに「タクローさんとは違う世界観、女の子ならではの感性が伝わる」なんて言葉をもらえたものだから、タクローさんの本家は動画だし、写真はメインではない、それでも「カメラマン2人もいらないんじゃないかなぁ」なんて思っていた感情は早々に消すことができた。それこそ、次こそ、「私に映る世界」を切り取るんだ、と前向き発進した。「構図」なんて言葉に直面した合流直後。構図がこんなに難しいとは。写真の魅力にぐいっと連れ込んでもらったあの夜は忘れられない。新しいことがどんどん目の前に現れて、吸収することに忙しい日々だった。水平は、少しだけ上手になった。

なんでもしていいよ、しちゃダメなことは何もない、この自由を与えてくれたダイスケさん。ダメなことは何もない。これが本当にそうなのだ、私が「〜してもいいですか?」と聞けば聞こえは悪いがもはや煩わしそうなほどになんでも「OK」と言う。これだけ自由を人に与えられる心の持ちようはどんなものなのだろうか、会社員上がりの私にとってもうこれは異次元だった。「そらのの面白いわー」エッセイを投稿するたびに毎度丁寧に感想を伝えてくれるこの言葉に浮かれないわけがなかった。ダイスケさんをエッセイの中で「この男」「赤いベレー帽の男」呼ばわりしたってなんの気にも触っていないようだった。なんて、自由だ。自分の書いた文を読まれることは慣れていなくて恥ずかしいけれど、表現の仕方に何も突っ込んでこないでくれるのは本当に嬉しかった。「こう言う表現はやめて」「こういう話は入れない方がいいんじゃない?」なんて言われようものなら私はすぐに縮こまってしまう人間だ。だから、そう言う面でも私はダイスケさんとの出会いは人間としての成長を促した。

「これ、書籍化したいよなー」本気で言っているのか、その瞬間での思いつきだったのか、今はダイスケさんと言う人間を3週間以上の時間を共に過ごしたことで出会ったばかりの頃より理解しているから「本気で言っていた」と断言できるが、この時はまだ「え、本気で言ってるの?」と半信半疑だった。しかし、そこを疑いつつも「書籍化」と言うワードは一瞬で頭に刷り込まれた。表情に出さずとも、内なる闘志が燃えていたような記憶がある。

はじまった、私の色々がはじまった。エッセイの連載も、写真を撮るときの構図を意識することも。私、先月までシステムエンジニアとして1日中太陽の光も入らないような部屋でパソコンとにらめっこしていたんだよな、と太陽の光が燦々と降り注ぐ広場でふと我に返ったりなんかした。

2週目ーマンネリに加えて西野降臨

1週間、1日に約3−4時間かけて一つのエッセイを作成していた。言葉がどんどん固くなるのがわかった。「小説」を意識しすぎて、語尾の統一感、それでも同じ語尾ばかりにならないようにと違う言い回しをしていくうちにぎこちなさを感じるようになっていた。

滑らかに、自分が思うままに書きたいのに書けない、そして場所は違えど、人も違えど、活動というくくりでは毎日同じだ。そこから毎日エピソードを切り抜くのは思いの外難しくてめげそうになった。

そしてその活動を通して私は「ネタ探し」ばかりをしていることに気付き、それが正しいのか間違っているのかの判断もつかなくなっていた。だって、純粋に喜んでくれる姿をみていてこちらも笑顔になっていたのに、その笑顔にどんな背景を付け足そうか、なんて考え方失礼だと思いません?

どうしよう、どうしよう、私は打開策を考えていたり、ヨーロッパを襲った記録的な熱波に体力が奪われていき、この1週間はとてもとても長く感じた。

そんな時にダイスケさんが言うんだもの「キンコンの西野は1日に2万字書くよ」内心ツッコミの嵐ですよ「なぜキンコンの西野と比べられているのだろうか、私」。西野さんがすごい、の一言で片付けられないのは事実。ファンって程ではないけれど、同じ時代を生きている中で絵本を読んだりYouTubeで講演を見たりはしていた。それでも納得はいかなかった。ダイスケさんにとって西野さんがどのような存在で、目指すべきだったり憧れだったりなのかはわからないが、私にとっても「なりたい」や「憧れ」の存在は別にいる。その人が1日に何字書くのかは知らないが、私に届く言葉を紡いでいる。

補足しておくけれど、1日に2万字書く人がいる、と言うことを教えてもらえたことはプラスに働いた。すごい人もいるもんだと。幼稚園生の頃からパソコンに触れ、高校生の時には普通科にいながら商業科でも数名しか取得していなかったワープロの検定でMAX級を取得した、タイピングだけに関してはプライドもあって、2万字伝えたいことがありかつそれを書き出す能力は純粋にすごいと思った。だからその2万字を読んだことがない私にとって、2万字はただのスピード感しか伝わってこなかったのだなと、今冷静な分析ができた。私にとって似たような例えは重松清さんの「口笛番長」というとっても面白い小説がたったの1日だか長くても3日で書き上げられてしまったことだ(あとがきに書かれていたはず)。

ただ納得がいかない、そう思うのには西野さんと比べられて悔しいと思ったのか、押し付けないで、と思ったのか、自分のペースでやらせて、という気持ちだったのか、色々思い当たる節はあるのだけれど、これに答えが出せるほど私はまだ素直になりきるための殻は破けていないみたい。

3−4時間かけて、1000字前後のエッセイを書くのが精一杯の私にどんよりとした雲が広がる週だった。

まだ、駆け出し。それでも一人前にエッセイストになりたかった。朝ごはんを食べる前にサクッと一本書いてしまうような想像力、語彙力をねだった。

そんな時、初めてnoteに購入通知が来た。ええ、泣きました。ここで立ち止まっていてはいけない。せっかく私の物書き人生を、自らスタートさせることができたんじゃない。気持ちが回復していくのがわかった。同時にいい意味で吹っ切れた。「好きなように書こう」そう思ってからエッセイの主役を私にした。私にすることで私の心情も書きやすいし、みたままの世界がかけると思った。

主役はあくまでもダイスケさん、そう思っていたのだけれど、主役は私だ!そうやって割り切ったら、これが自分のスタイルだったのかと言わんばかりに「エッセイ」としての自信が持てるようになってきた。世間での自分の存在感のごとく、主張しすぎることなく私の書きたい世界が広がりはじめた。

3週目ー焦りと諦め、そして夢

密度が濃すぎる故に、時間はとても長く感じていた。しかし、終わりへのカウントダウンははじまっていた。やばい、そう思った。自分を過信していたわけではない。それでも私は「もっとできる」と思っていた。つまりは自分のキャパシティの勘違いだ。あれも、これもやりたいことはあるけれど、全然できないのだ。新しく始める連載もことごとく2回、3回で続かない。記事としてとストックは現実世界でどんどん溜まっていくけれど、文字にするエネルギーと写真を少しばかしの必要な編集が間に合わないのだ。これは、本当に焦った。

クラウドファンディングで支援していただいたお金で私はこの場に来ている。私がこの1万人チャレンジを盛り上げるためにしている行動をお金に換算することは確かにできない。しかし「失敗」だと思われる恐怖が渦巻いた。私はこの活動にスパイスを与えられると思ってしまっていたんだな、それこそ自意識過剰じゃないか。でも、本当にそう思っていたのだ。だから来たのだ。

とある夜にダイスケさんが言ったんだ「カメラマンをつけた旅人はいるだろうけど、エッセイストつけた旅人は絶対いないよ」喉の奥熱くなった。存在の肯定、言葉にしてもらうことで安堵したのだと思う。ダイスケさんのこのチャレンジは、1万人に書をプレゼントする、ただそれだけならダイスケさんが1人でやり切るしかどうにもならないのだ。それをいかに盛り上げるか、と言うことで選んでもらったことを思い出した。いい意味で期待をしていない、もちろん一個人としてはとても期待してくれている。でも、私があれもこれもできない、と言う出来ないと思っていることはあくまでもプラスαなのだろう、出来ないことを責めることは全くなかった。

私はそこに甘えることにした。もう出来ない、出来たとしてもそれは今の私ではクオリティの低いものになる。だから私は今この場で出来ないこと、日本に持ち帰ろうと思った。「リアルタイム発信」の心がけはエッセイに注力することにした。ダイスケさんが座った場所の観光地化計画も、巡った郵便局も、日本に帰って振り返りながら、その国への思いを馳せながら、私がブログなりnoteなりのツールを継続的に使っていくきっかけにさせてもらおう。

スーッと楽になっていった。同行期間が終わっても私はチームの一員じゃなくなくなる、なんてことはない。この活動からどう、私は成長していくのか、発信していくのか、きっとそれをダイスケさんも応援してくれる、自分のいいように解釈をしすぎか。なぜだろう、理想はリアルタイム発信に違いはないだろうけれど、それが出来なかった次に、このいいように解釈してしまっている継続、を望んでくれていると言う確信を得ていた。1週目に話していたなんでもOKのその続き。私はもう「出来ないので、日本に帰ってからやるでもいいですか?」とは聞かなかった。これは自分の意志だ。今の状況で発信できないと諦めるのも自分の意志。日本に帰ってからも続けることも自分の意志。そもそもエッセイをはじめ何かをやって、と頼まれたことすらないのだ。能動的に動きたくなる、そう思わせてくれるエネルギーがこのチームにはあった。

できない、できないと言う焦りがあった。でも、それを解決することが自分でできた。これを諦めというと格好悪いが、信頼とも置き換えることができた。これが、3週間旅を共にしてきたことの形になり始めたナニカのような気がした。そして、書籍化についても調べ始めるようになっていた。検索エンジンを使い何かを調べた時に出てくる広告はもう、「自費出版」関連のものに変わり始めていた。目まぐるしい3週目が終わった。焦っても仕方ない、諦めも肝心、余裕のできたそこには次なるステップが見え始めた。人生は選択の連続だ。何を選んでも自己責任。きっと私のした選択は、全て私が選ぶべき選択だった。自分が「楽」になることを選ぶことも大切だ。会社員を離脱して約1ヶ月たった頃だ、凝り固まっていた思考がほぐれていくのを感じた。それはこのチームがそうさせたのか、外国の空気がさせたのか、肩のあたりにまとわりついた色々がポロリポロリとはがれ始めたのかな、なんて表現でもしておこうかと。

4週目ー孤独とそれを打ち明けた場所

私は「いい意味」で部外者だった。この1万人チャレンジのクラウドファンディングから話は始まるけれど、この1万人チャレンジのベースにはクロスロードの存在がとてつもなく大きかった。この1万人チャレンジのチームにクロスロード出身でないのは、私だけだったのだから、これは十分言い切っていいと思っている。

ダイスケさんが旅をしていた時の繋がりももちろんあったでしょう、しかしスタッフをしていたクロスロードでの繋がりが素晴らしい、すごい、さすが、どの言葉もいまいち当てはまらないような気がするけれどそんな、ダイスケさんの築いてきたものが形になっているのがわかった。ダイスケさんの奥さん、マユミさんが合流した時にFacebookの秘密グループメンバー約300人をみて「面識のない方は30人くらいでした〜」なんて聞いた時は、最終週にも関わらずものすごい孤独感に襲われた。

自我が芽生えた、と似ていて私はプライベートのSNSでは常に鍵をつけているから全く持ち合わせていなかった「承認欲求」なんてものが生まれていた。「いいね」の数が気になる様になってしまっていたのだ。これは、なかなかにしんどいぞ、そう思った。自分の書いているものがもっと面白ければいいねはもっとついたのだろうか、外部のサイトに飛ばなければいけない手間がよくなかったのだろうか、それともお前誰だよって話になってしまうのか?

もともとネガティブ思考回路への回線が繋がりやすく、その回線を抜けど抜けど、「部外者だろうと気にせずグループメンバーへもっと歩み寄る努力をするべきだったんじゃないのか」と内の自分の厳しい言葉が、身体中に染み渡る。後悔したって遅い、でも私は自分で自分をさらに「部外者」に追い出していたのだと認めざるを得なかった。だから、この後悔をこうやって文字に起こすことで少しでも拭いたいと思っている、ずるい人だ。

さらに続く、私以外のメンバーはクロスロード出身故に、その時の部屋番号なのだろうか、食事のスタイルだとか、一度の食事でも皆が「懐かしい〜」なんて歓声をあげるものだから、羨ましいなぁとニコニコしているだけしかできない。たった1人、その環境を知らない人のために話を出さないのはおかしな話だから、全然構わない。ふと解説を入れてくれたりもするから、仲間外れを感じることだってない。でも私は部屋の番号で笑い合うことも出来ないし、食事に懐かしさもなければみんなが一緒に歌いはじめた歌だって知らない。来るもの拒まずであることは、このチームの人たちを間近でみていたから疑う余地もない。なのに私は、この孤独という洞穴から抜け出す勇気が持てなかった。

「身内」感がとても羨ましくて、素敵だと思った。クロスロードという場所がいかに面白い場所なのか、みんなの顔を見ているとわかる。どうしたものか、もう帰国までのカウントダウンが始まっているというのに。終わりというのは常に完璧ではないということを知った。こんなに後悔が残ることもあるのかと。

タツに懇願した。「私が今から話すこと、後悔が和らぐ唯一の手段だからどうにか文字起こしして伝えて」。合計時間は多分3時間くらい、2人で話ていた。タツはとても聞き上手なこともあるし、年齢が一つ上、ということもあり私はとことん妹ぶってやろう!なんて意気込んでたりもしたものだから永遠弱音を吐き、ネガティブなこともさらけ出した。

そうしたらだ、よかったのか悪かったのか。GoProで撮ってもらったそのおしゃべりの時間約2時間は、最初の20分しか撮られていなかった。iPhoneで撮ってもらっていた、切り取って欲しかったであろう話をしていた時間は容量がいっぱいで途中できれていた。なんてこった。記録が残らないのはいいことだったのか。でも、弱音を吐くことすら思いつかなかった3週間が過ぎ去り、4週目にタツが来てくれたおかげで自分と向き合う時間をくれた。それと、タツは褒めるのが上手だから、私が何を話そうと「そらのはすごいよ!」と口癖のように言ってくれるから嬉しかった。タツの兄弟構成は知らないが、妹が3、4人いてもみんな兄に懐くだろうなぁ。あれ、想像したら笑けるなぁ。

その後、タツが文字起こししてくれたその動画は私がポジティブに話していたところだけが切り取られていて、理想の自分ではあるけれど本音はもう少し弱い自分も切り取ってもらいたかったなと思っている。ドキュメンタリーはいつだって綺麗なことばかりではない、視聴者がいる前提の編集だからこそ、客観的に「こいつの悪いところ」なんかをさらけ出すのもいいのかな、なんて思っている。というようり私のクズ具合を見てもらって、「こんな子だったのか」って知ってもらいたかったんだ!

なんて、こんな形でタツに感想を伝えてしまってごめんなさい。改善点みたいな形の感想になってしまったけれど、やっぱりタツに話を聞いてもらったこと、引き出してもらえたことはこの総括をしよう、コテコテに自分と向き合おうと思わせてくれたきっかけでしかなかった。この1万人チャレンジに対しての思いは、自分が思っている以上に大きなものになっていることに気づけたことも純粋に嬉しかった。年齢が近いこと、会社に勤めた年月が同じくらいだったこともあって、なんだか身近に感じて、孤独を感じるという弱音を吐けたこの場所は孤独じゃなかった。

人は、出会うべくして出会うのだなと思う、そんなタイミングでのタツの合流だった。

こんな孤独を連呼して1人寂しかったというアピールをしたいわけではない。チーム全員が揃った6人の夜は最高に楽しかったし、出会えてよかった、ここにいられてよかった、と心から思った。明日、ここにいるみんなと離れるなんて信じられないな、それくらい日常化していた空間だった。1人被害妄想、メンヘラになっていることには気づいていた。だからこそ、もう一枚の殻を破りたかったという後悔が渦巻いている、のだと思う。

帰国

別れは結構、あっけなかった。「起きれたら空港まで送ってくよ」なんていつかの言葉も、夜遅くまで飲み明かして玄関先での握手で終わってしまった。はて、どう思い返しても私は直接伝えるべき感謝を伝えきれていないのではないか。

まだ、チャレンジは終わっていないから、私1人が感傷に浸っている訳にもいかないのだがそれにしても、あっけなかった。また会う、そんなことはわかっているが、途中で抜けるとはこういうものなのだろうか。

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ダイスケさん、私を選んでくれてありがとうございました。期待通りでしたか、以上でしたか、それとも期待に添うことができませんでしたか。いや最後の質問は無粋ですね、失礼しました。ダイスケさんの1万人チャレンジを通して、数えきれない笑顔を見て、ギフトと言う単語にしびれました。同じ空間にいることで、私も何かを成し遂げてしまっているような感覚になりました。しかし、それはあくまでも感覚で、私はダイスケさんにスタートラインを用意してもらったのだと思っています。

私の物語はまだ、はじまったばかり。ここから紡いでいきます。ダイスケさんの挑戦に続くのは、間近で挑戦を見ていた私以外に誰がいますか?いないでしょう。きっと、道なりは平坦ではないと思いますし、スピード感も今は正直自信がないです。とりあえずやってみればいいじゃん、そのとりあえずの一歩が踏み出せない時もあります。

でも、踏み出すべき一歩を逃す怖さも知っています。例えば、このチャレンジ同行に応募していなかったらと思うとゾッとします。ワーホリに行きたいと言う気持ちが強くて会社を辞めたはずでしたが、この1ヶ月を通して「なぜ」ワーホリにこだわっていたのか迷子になりました。でも、迷子になるだけの道が、曲がり角が増えたのだと今はなぜかスッキリした気持ちなのです。

それも多くの経験談を聞かせてくれたり、たくさんの人に出会わせてくれたり、何よりもどの国に行っても野放しに、自由に、その国の空気をたくさん吸い込む時間を与えてくれたお陰です。好きなことや、求める自由を、時間の流れや道に迷うこと、全てが物書きとしての感性に磨きをかけているような感覚でした。

ダイスケさん、私これからもずっと物書きしていけると思いますか?今は、「できるっしょー、てかそらのは書きたくて書き続けるんじゃないの」なんて言葉をかけてくれるのかなと勝手に想像、期待をして、その言葉を受け取っています。合っているといいんですけど。

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日本に帰ってきたら、湿気がすごいし、物価は高い。でも、ここが私の住んでいる街なんだなと、慣れすぎた道はいつもイヤホンをしていたけれど、たくさんの街を巡った帰りは妙にふるさと感を全身に感じてしまいイヤホンをつけずに、私の街を歩く。外国が大好きだけれども、外国に行くことで日本も好きだなと毎回アップデートされていくのはたまらない。

家族も愛犬もいて、話したいことがたくさんあって、一緒に食べたい美味しいものがあって、近所のパスタ屋さんでイタリアの話をするのもとても楽しかった。このパスタ屋さんがこれまた美味しいんだ。

身長がもう少し高ければ、ブロンドヘアがよかった、ブルーアイがよかった、ちょっと巨乳すぎたヨーロッパ諸国、でもそんな容姿を気にしているのはきっと私だけで、皆背筋が伸びていてとても綺麗だった。だから私も気にすることを辞めた。無い物ねだりしたって手に入らないものは入らない。そうすると、空港を出た時の私は、背中に20キロのリュックを背負っていることもあるだろうけれど、1ヶ月前より視界が明るく心なしか酸素もたっぷり吸えているようだ。丸まった猫背が少しだけシャンと伸びて、肋骨が広がったのかもしれない。1ヶ月って、あっという間だ。でも1ヶ月って振り返ればあっという間なだけで体感時間は結構長い。この体感時間が長いと感じるのは赤ちゃんと同じだ。新しいことを吸収している時、時計はゆっくりになるらしい。

帰ってきたら早寝早起きになっている、という変化を遂げている予定だったのだけれど、それはうまくいかず「1ヶ月で人は変われる!」なんてたいそうなこと言えないし実績もないのだけれど、この1ヶ月が私のこれからの人生に及ぼす影響は多大だ。我が人生ながら、なかなかに、楽しみだ。

これからのこと

5月末で会社員を辞めて、このチャレンジが終わったらさてどうしようか。ずっとずっと考えていることだけれど、やっぱり答えは出なかった。今も尚、答えは出ていない。

夢を、応援してくれる人にたくさん出会うことができた。私が何を選択しても応援してくれる自信がある。真似したい、後に続きたい、何度も何度も高揚した。

ワーホリでオーストラリアへ行きたいと思っていたけど、オーストリアやアイスランドもワーホリビザが取れるらしい、面白そう。海外でインターンをしてみたい、Webスキルを学ぶ学校に入りたい、安定を求めてもう少し会社員を続けたい、小説家になりたい、写真をもっと撮りたい、ブログでお金を稼げるようになりたい。

1ヶ月で9カ国も回るというなかなかできない経験を経て、私食べることが好きだな、ということも改めて感じた。あと、節約飯であろうと嗜好が研ぎ澄まされていくのがわかった。これとこれ合わせて食べたら美味しいだろうな、とか。

世界中のご飯を日本へ持って帰りたい。あぁご飯屋さんをやりながら年に1、2ヶ月「修行に出てます」なんて札をかけて海外に食探しできたらなんて素敵な人生だろうなんて新しい妄想が生まれた。

なんて欲張りで、落ち着かない、軸がないのだろうか。だけど夢がないと悩む人もいる世界で私は恵まれていると捉えることにしたいと思う。

だけど今、確実に叶えなければならないという自らの使命のもと動いていることが一つある。

小説の自費出版。

有言実行するべくこのnoteの場で言ってしまおう。この1万人チャレンジを通して書いてきたフォトエッセイと、フォトエッセイを読む前に読んでもらいたい小説を書き下ろしたものを合わせた一冊の本を作ろうとしている。小説家になりたい、なんて口が滑っても言えなかった。でも今は、「小説家として食べていこう」と思っていないだけ。小説一冊出せば私は晴れて小説家だ、そんな勢い任せに、せっせと、私にだってできる、人生で一冊本を書いてみたい、その一冊を実現すべく頑張っている最中。

1万人チャレンジの続きを、私もクラウドファンディングから始めたいと思うのです。チャレンジすることを諦めたくない。そして今、烏滸がましいかもしれないが、いや、烏滸がましいと思うことが失礼になるのかもしれない。

私の書いて、作る本を読みたいと思ってくれている人がいるという確信がある。

こんなチャンスを掴まないでどうする。今は謙遜ではなく、自惚れるべき時だと直感が言う。自信がないだの、不安だのそんな自分の感情に蓋をしてでも前進することが正しいのだと。まさか私が、と言う気持ちを書き出したらそれこそタイプする指が止まらなくなる。でも、やってみようと思う。

ダメでもともと、やってみなければ何もはじまらない。それは私が一番よくわかっていること。この1万人チャレンジの同行に応募して、今この全てが始まったのだから。よくやったぞ、私。続け、私。

おわりに

ここまでネガティブをさらけ出したが、私の一番尊敬している先生が離任されるときに送ってくれた言葉が「ポジティブシンキング」。この言葉に出会って10年以上になるが、一日たりとこの言葉を忘れたことはない。人工的に、後天的にでも私はポジティブ変換が得意だ。ネガティブ思考を遮断することができたら幸せだけれども、そればかりは今の所先天的な性格でちょっぴり難しい。だけど、ポジティブに切り替えられることは私が私を好きになれるところのうちの一つ。

こうやってさらけ出すことで私はまた新しい今日が始まる。書くことが好きで良かった。こうやって書き残すことで、後から読み返すと「なんてくだらない」と思えるようになっているのだから。人間の成長はすごい。我ながらすごい。

はじめまして、そらのと申します。ちょっと聞いてくださいよ、1ヶ月ばかし、非日常の世界でフォトエッセイを連載してきたんですけどね、なんだか私の物語がそこからはじまったみたいなんです。はじまるだけはじまって、続きは自分で綴っていきなさいって言うスタンスらしいから、私ちょっと、できるところまで頑張ってみようかなと思うんです。

今後とも、応援をよろしくお願いします。


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