歩く学校、卒業生ぼくの最適解
この記事はポプラ社さんの「#こんな学校あったらいいな」のコンテストへ応募している作品です。約4000字(3953字)、ぜひお付き合いくださいませ。
ぼくの通っていた学校は少し変わっていた。
といってもすごく珍しいわけじゃなくて、都道府県に1つずつくらいはあって、でも、日中に青い帽子の集団が歩いていれば「ぼくの後輩だ」だとか「あの学校の子供だ」とひと目でわかるくらいには変わっている。
ぼくの通っていた学校は歩く学校。名前の通り、自分の足でひたすら歩く学校で、普通の学校のように毎日通う教室もやイス、机がなければ、黒板を使ったりノートに書き込む授業もほとんどない。
だから僕たちはテストとかを受けたら、はっきり言ってバカだ。もしかしたら普通の学校に行っている人は、なんでこんなのもわからないんだ、とあきれてしまうかもしれない。
校長先生が恩田陸の『夜のピクニック』を読んで思いついた学校だったらしいんだけど、ほんと、安易だよね。ぼくもその本を読んだけど、その物語はたった2日間だけのはなしだ。ぼくたちはほとんど毎日歩くから、100kmどころじゃない、何千、何万kmになる。
ぼくたちは海沿いを歩く日もあれば、山を超える日もあるし、街中の幹線道路を歩いている日もある。そして、歩きながらぼくたちは算数や国語、社会も理科も勉強をする。クラスメイトの年齢はバラバラだったけど、年上のクラスメイトのことは上級生と呼び、兄や姉のような存在だった。
例えば算数の授業でかけ算を勉強していたときは、みんなで「にさんがろく、にしがはち」と声を揃えて、それを呪文のように1日中繰り返す。1週間後は、前を歩いている子が「6かける3は?」と問題をだして、ぼくが答えたら、次はぼくが「3かける8は?」と問題をだした。もちろん、足をとめることはない。
国語の勉強は、歩いている途中にでてくる案内の地図とかで漢字の読み方を勉強したり、百人一首のCDをかけながらみんなで声を揃えたりした。あとは図書館で本を借りることが出来た。ぼくたちは毎日のように市や県を越えていたけど、この学校の生徒はどこでも借りることが出来て、返すことができた。
この学校は社会がいちばん得意だと先生はいつも言っていた。新しい町へ入るたびに、その町の有名な食べ物やお祭り、歴史をたくさん知る。先生が歩きながら教えてくれたり、公園のベンチに座っていたおじいさんや泊まった先のおかみさんが教えてくれたり、その息子だという金髪のお兄さんが、その地域の怖い話をしてくれることもあった。
ぼくは理科がいちばん好きだった。特に、天気はぼくたちが前へ進むためには重要だったから、天気予報や雲への興味はつきなかったし、山の上の方で頭が痛くなったりするのは気圧のせいだと教えられた時は、目に見えないものに体が反応していることに驚いた。ちなみに頭が痛くなったら危険だというのは、普通の学校ではなんの授業で教えてもらえるんだろう。
音楽の授業は、田んぼと田んぼの間を歩いているときにみんなで歌ったり、夜眠る時にクラシックの音楽を流してくれた。だから最後まで聴くのは難しいんだけど。それから、川で魚を捕まえたり田植えを手伝うことが、ぼくたちの中での体育だった。歩くくらいじゃ筋肉痛なんてならないけど、体育の次の日は全身が痛くなる。
少しくらいの雨はぼくたちはカッパを着て平気で歩き続けた。雨の日に、真っ黄色のカッパの集団がいたら、それはぼくの後輩で間違いない。先生が言うには、「雨に濡れることはたいしたことない。濡れたあとに、しっかり乾かさないことがダメなことなんだよ」と。はじめはよくわからなかったし、雨に濡れた後に熱を出して寝込んだことがみんな、1回以上はあった。
そして、ぼくが熱をだしてもクラスメイトたちは次の日、ぼくと付き添ってくれる上級生を残していつも通りに出発してしまう。もちろん、ぼく以外の子が熱を出してしまっても、ぼくはいつも通りに出発する。そういうルールだった。
熱がひいたら、ぼくは休ませてくれていた宿の人にお願いをするんだ。
「すみません、ぼくを、みんなのところまで連れて行ってくれませんか?」
はじめは不安で、怖くて仕方がなかったけれど、近くにいる大人に頼る以外方法がなかった。
「いいよ、ちょっと待っててね。車の鍵をとってくる」
いいよと言ってもらえたとき、病み上がりのせいもあるだろうけど、涙がボロボロあふれた。安心したのかもしれないし、緊張していたのかもしれない。そうしたら黙って見ているだけだった上級生が近づいてきてこう言った。
「俺も、そうやって泣いたよ。で、そのときの上級生が言ってくれたんだけどさ、俺たちってひとりじゃ生きていけないけど、頼ることでどうにかなることは多い。いまも、助けてもらうことで俺たちは前に進むんだよな。だからさーー…」
無事にみんなと合流して、車で送ってくれた大人に何度もお礼を言った。
「助けてくれて、ありがとうございました。いつか、ぼくに出来ることがあればお礼に助けます」
大人は目を丸くして、はっはっと声をだして笑った。
「そのときはよろしく頼むよ。また泊りにおいで」
ぼくはそれからもこの学校のクラスメイトとして歩き続け、卒業して、大人になり、働いている。やっぱり頭がいいとは言えなかったけれど、どうにか目指していた図書館の司書になった。図書館にいれば、ぼくの後輩がたまにやってくるだろうという安易な理由と、それからもうひとつ。
ぼくたちの学校は、市や県を越えても本を借りることが出来る、と言ったけれど、あとから知ったのは、ぼくたちは返していたのではなく、その図書館の人に預けていただけだったのだ。いろんなところから借りた本を、図書館の人たちが、ぼくたちが返すべきはずだった図書館へ返してくれていた。これを知ったとき、後輩の本はぼくが預かりたいと思った。
卒業を控えた年のある大雪の日、歩きは中止で、宿でぼくは卒業文集にのせる将来の夢についてを書いていた。もうぼくがいちばん上の上級生で、後輩たちは絵を書いたり、ノートを開いて字を書く練習をしていた。
そのときに書いていた夢は、天気予報士になることだと書いていたのだけれど結局、ぼくはその職業には就かず、図書館で働いて、例のごとく今日は、ぼくの後輩たちから預かった本を、返すべき図書館へ返しに行く。あのとき、ぼくたちの学校が特別だと思わせてくれていた大人になれているようで、この仕事が結構好きだ。
それから大人になった今でも、ぼくが熱をだしたときに助けてくれた大人へのお礼をまだ果たしていないことがずっと気がかりだった。でもあのときに笑っていた意味が少しだけ、いまならわかる気がする。
ぼくが言った「いつか」がとても不確な約束なのだと、大人になってから知ったからだ。だけどあのときの大人は、ぼくが本気を疑ってはいなかったと思う。だからこそ、もう一度会おうと思って、場所を突き止めた。
「ごめんください」
懐かしいような気もするけど、それはたぶんぼくの記憶が作り上げているだけのような気もする。
「はーい」なかからおじさんがでてきた。あれこれ昔お世話になったのだと説明をしたが、そのおじさんは全然覚えていなかった。
「はっはっ、でもありがとうな」
ぼくも正直おじさんの顔を見たときに、こんな大人だったかと思ったけれど、その笑い方だけは本当に懐かしいと感じた。
「なぁ、情けは人の為ならずって言葉知っているか?」そのおじさんがにんまりと笑ってぼくに尋ねた。
「はぁ」ぼくはその言葉と意味は一応知っていたからうなずいた。
「俺がきみにとって忘れられない大人になれたのはうれしいし、こうやって何年越しだろうとまた会いにきてくれたことなんて、今度こそ忘れられないよ。でもな、きみが言ってくれたその「お礼に助けます」ってやつは、俺じゃなくて、また違う子供にしてやってくれよ」はっはっ、とよく笑うおじさんだった。「あ、それでもお礼したいってんなら今夜は俺ととことん付き合ってくれよ」とおちょこをクイクイと動かす動作をした。
ぼくは日本中を歩いた。どこの道を歩いても、気のせいもたくさんあるだろうけど、どこでも懐かしいと感じる。いろんな町で、聞き取りづらい方言もたくさん聞いたけど、それもたいした問題じゃない。どの道でも、ふと思い出す人とのエピソードが溢れていた。
ぼくは普通の学校に通う子供たちよりもずっと多くの助けを受けた子供だ。大人に頼らないと、前に進めない日があるほどに。そして今日、ぼくの心残りを片付けに行ったらまたひとつ、新しいことを教わった。
はっはっと笑うおじさんは、ぼくの恩返しを待っていたわけじゃなかった。お礼をしなければとずっと気にしていたぼくは気が抜けてしまった。でも、それは何年もかかってたどり着いた、あのときの上級生のクサい言葉の答えなのだとすぐに気がついた。
あの熱を出したときに上級生が言った言葉はぼくの中に深く刻み込まれていた。「助けてもらうことで俺たちは前に進むんだよな。だからさ、たくさん頼ろう。そのかわり、俺たちも頼られる大人になろうぜ」。涙はとまらないのに頭の中で、なんてクサいことをいうのだろうと思っていたけど、上級生になって付き添ったとき、ぼくもまた同じ言葉を後輩に言っていた。さらりと言ったつもりだったけれど、自分の口からでる言葉のクサさに実は背中にべったりと汗をかいていたから、あのときの上級生もそうだったかもしれない。
このおじさんと飲むお酒を飲み終えたら、人を頼り、助けられながら卒業するまで歩き続けられた歩く学校卒業生のぼくなりの恩返しを、この町ではじめよう。日本中を歩いている子供たちからも、普通の学校に通う子供たちからも、頼られる大人になることが、ぼくの恩返し、最適解だ。
fin