【連載小説】ぼくは、なつやすみの『すきま』に入った。 (第3章)
川の水は、さっきみたいに押し流されるような感触はない。ただ、足元だけひんやり寒い場所を歩いているみたいだった。
振り返ると、パパは網を構えたまま、夏乃はよろけた姿勢で止まっていた。足元の水しぶきも空中で固まっていて、細かな粒が小さなガラスの欠片のようで、きれいだった。
「こっち、こっち!」
少年が立ち入り禁止のロープをくぐり、滝壺の方に泳いでいった。
川は、しぶきは立たないが泳げるようだったので、僕もこわごわ泳いでみた。
平泳ぎで手を掻くと、今までに味わったことのないような、不思議な感覚がした。
冷たい空気の中、空を飛んだら、こんな感じかもしれないと思った。
「すんごく気持ちいいだろ!」
少年が言った。
「ほんと!泳ぐのあんまり得意じゃないんだけどさ、めちゃくちゃ上手く泳げる!」
僕は嬉しかった。
滝壺の辺りの、少し深くなっているところに着くと、少年が言った。
「この滝登った向こうだから」
「え?登るって…」
滝は二メートル位で低かったが、岩がゴツゴツしていて滑りそうだし、とても登れないように見えた。
すると少年が、僕を見てニカッっと笑った。そして、滝壺に行くと、上を見て、軽くジャンプした。
「えっ!?すごい!!」
次の瞬間、少年はもう滝の上にいた。まるで、科学館でみた、月の表面でふわりとジャンプする宇宙飛行士の映像のようだった。
「冬里も早くこいよ!」
何で僕の名前を…と思ったけど、さっきパパが呼んだのを聞いてたんだ、と気が付いた。
でも、僕なら名前を知った途端、呼び捨てで呼ぶなんてできない。
どうやって呼ぼう、最初は「くん」をつけて、しばらくしたらあだ名がいいかな…とか、考えてしまう。
少年にはそれが自然なことらしく、なんだか羨ましかった。
「早くったって…」
「いいから、そこから飛んでみな!」
時間が止まってるんだ、そもそも全てがあり得ない。だからもう、なんだって出来る気がしてきた。
僕は、軽くジャンプしてみた。
「わ、わわ、わっ!」
気付いたら僕は、滝の上にふわりと着地していた。
「な、出来ただろ」
そう言うと少年は、先に立ってどんどん川を上って行った。
石がゴロゴロしている河原は、慣れない僕には歩きづらく、少年から遅れをとらないようにするので精一杯だった。
「あ、ほら、カニ!」
少年が指差す岩影に、茶褐色の小さな沢ガニがいた。動かないので、思わず指でつまんで持ち上げたら、触れられた途端に動き出したカニは、僕の指を挟んだ。
「イテテテテッ!!!」
僕がとっさに手を振り回したので、カニは空中を飛んでいった。それを少年が、器用に受け止め、大笑いしながらさっきのバケツの中に入れた。
ちょっと恥ずかしかったが、少年が「すげえ、沢ガニって空飛ぶんだ!」なんて言うから、僕もつられて笑ってしまった。
しばらく歩いていくと、少年は「少し休もうぜ」と言って川岸の木陰の石に腰をおろした。僕も隣に座った。
枝の影が少年の顔にかかり、まだら模様に光っていた。時間が止まっているので光が揺れないことが、普段光なんて気にしていない僕にも、不思議に感じられた。
「あのさ…僕まだ君の名前、聞いてないんだけど、なんていうの?」
僕は思い切って聞いてみた。
「ああ、そっか。わりいな。俺は、一郎っていうんだ」
「一郎くんは、いつもここで遊んでんの?」
「一郎、でいいよ。いちろうくん、だなんて、呼ばれたことねえから、気持ち悪りぃや」
一郎は立ち上がると、川の水を手ですくって飲んだ。
「つめてー!」
僕も真似をして飲んでみた。川の水なんて初めて飲んだのだが、夏なのに一瞬で全身がひんやりとしたような気がして、びっくりした。
「美味しい…!」
一郎は、川で顔をゴシゴシ洗っていたが、こちらを振り返って「だろ?」と言った。
ふと見ると、僕の目の前に紋黄蝶がいた。
あまりじっくり見たことが無かったので眺めていると、一郎が近寄ってきて、指でそっと突っついた。すると、ふわり、と蝶の時が動き出した。
黄色い羽がヒラヒラする姿がきれいで、僕たちはしばらく黙って目で追っていた。
「じゃ、そろそろ行こうぜ」
僕たちは再び、歩き出した。
僕は水遊び用のシューズをはいていたが、一郎は裸足だった。日に焼けたかかとは、靴なんかはかなくても大丈夫な感じで、固そうだった。
浅瀬のところは川の中をジャブジャブ歩き、深くなってきたら、川岸を歩いた。石がゴロゴロしているので歩きにくく、僕は遅れがちだったが、一郎はさりげなく合わせて歩いてくれているようだった。
僕たちは、ずっと歩いていた訳ではなく、長い枝を拾って戦いごっこをしたり、石を積んで、高さを競う遊びをしたり、気の向くままに遊んだ。
ここまでのんびりと遊んだのは、何年ぶりだろうか。学校では休み時間も短いし、放課後は習い事があったり、遊んでいるより勉強している時間のほうが長かった。
「ここだよ!」
川原がひらけて、明るい場所にでたとき、一郎が言った。
「え?どこ?秘密基地?」
「やっぱ、わかんねえよなー」
一郎は木陰で少し暗くなっていた、低い崖の方に歩いて行った。そして、沢山落ちていた木の枝や葉っぱを、ガサガサとどかし始めた。
するとすぐに、斜面のところに洞窟の入り口が現れた。
木の枝や葉っぱは落ちていたわけではなく、一郎がわざと置いたようだった。
「わあ!すごい!!」
「すげえだろ!誰かが勝手に入んねえように、入り口を隠しておいたんだ」
一郎は自慢げに言った。
「入っていい?」
「おう!」
僕達は腰をかがめて、薄暗い洞窟の中に入っていった。
(第四章へ続く)
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