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掌編「五月五日の擦り傷に誓う」

 君が初めて笑った日の事を、僕は一生忘れないよ。

「パパの馬鹿ぁー」
「ごめんって」
「あっち行けー」
「だからごめんって、今度は放さないから」
「嫌だぁもう帰るー」
「今来たばかりだよ」
「嫌だぁー、ママー」
 敷物の上で赤ん坊を抱いてこちらを見守るママに手を伸ばす君を見て、僕はすっかり弱り切ってしまった。

 僕ら夫婦に初めての子どもが誕生したのは四年前だった。産まれたての小さな男の子は、噂に聞くよりも真っ赤だった。そして噂に聞くよりも何億倍も可愛かった。目を閉じたままぎこちなく手足を動かす裸んぼうの子を、助産師さんがタオルにくるんで、頑張った妻に、それから僕の腕に抱かせてくれた。赤ん坊も泣いていたけれど、僕の方が泣いていたかも知れない。

 毎日息を止めて君の顔を見詰めていた。赤ん坊は眠るのと泣くのが仕事なんだって云うから、起こさないように、静かに、ベビーベッドに齧り付いて僕は君を眺めていたんだ。君は中々目を開けてくれなかった。数日の内には僕らのことが見える様になるって教わったけど、何度君を覗き込んでも、まだ僕と目を合わせてくれない。僕は早く君の笑う顔が見たくって仕方が無かった。

 退院して、わが家に帰ってからが大変だった。首の座らない君はひどく頼りない。どこもかしこもふにゃんふにゃんで、それなのに力いっぱい泣くんだもの。おむつを替えて、ミルクを作って、お風呂に入れて、又おむつを替えて。たくさん失敗したなあ。でも、腕の中に君を抱いている時は、じっくりと温かくって、君も気持ちが良いのか、すやすや眠っていてくれた。ベッドへ下ろそうとすると起きちゃって、又やり直し。でも僕は正直、何時間でも抱いていられたよ。顔を近付けると君はとても優しい匂いがする。無垢な命をこの腕に抱いていると思った。

 わが家にやって来て三日目の朝だった。お腹も満たされて君はベッドでご機嫌だったね。僕はそんな君と遊びたくて、思わずベビーベッドを覗き込んだんだ。ちょっと勢いが良過ぎたかも知れないと、僕は内心冷や冷やした。でも。君は僕と目を合わせた途端、ぱあっと明るい顔をしたんだ。
 笑った。
 なんて可愛らしい笑顔だろうと思った。思わず「来てー」と大声で妻を呼んでしまった。哺乳瓶を消毒液に浸けていた妻は、何事かと急いでベッド脇へ駆け寄って来た。
「今、笑ったんだ」
「うん」
「今僕が顔を近付けたらね、笑ったんだよ」
「もう憶えたもんね。パパの顔と、ママの顔」
「そっか。憶えてくれたか」
 二人して可愛い顔を覗き込んだら、君は瞼を瞬かせながら、不思議そうな顔をしていたね。

 それから時が経ち、わが家にはもう一人家族が増えた。今度は女の子。君はとうとうお兄ちゃんになったね。四歳の誕生日に、君が欲しがった自転車を買った。そして迎えた五月の連休、子どもの日。家族みんなで公園へおでかけ。鯉幟が泳いでる。お弁当と敷物に、君の自転車。君は僕と一緒に、さっそく自転車の練習を始めた。

 まだコロ付きの自転車。とっても安全運転と思ったけど、君はあっちへゆらゆらこっちへゆらゆら。バランスを取るのは難しいよね。でも僕は手を出し過ぎちゃいけないと思って、出来るだけ離れて見ていたんだ。そうしたら、ハンドルを切り過ぎた君の自転車は、あっという間に斜めに傾いて、がしゃん。公園の芝生に君の声が轟き始めた。僕は急いで駆け寄ったけど、先生落第喰らったみたい。君は僕を見て、一層大きな声を出して泣き始めた。
「パパの馬鹿ぁー」
「ごめんって」
「あっち行けー」
「だからごめんって、今度は放さないから」
「嫌だぁもう帰るー」
「今来たばかりだよ」
「嫌だぁー、ママー」
 大きな声。あれ、君が膝を痛がっている。どれどれ、見せて御覧ごらん
「ああ、擦り剝いちゃったか」
 傷を一緒に見た君は、僕の顔をじっと見て、もう一度泣き出した。
「ごめんって。大丈夫だよ。掠り傷だもん」
「痛いー」
 僕は困ると頭上を見上げる。青空に解決のヒントなんて書いてないけど、こんなに気持ちの良い天気だから、何か、見つけられそうだ。うん、閃いた。

「そうだ、みんなで粽食べようか」
「ちまき?」
「そう、リュックに入れて来たでしょう。ママと一緒に、みんなで食べて休憩にしよう」
「粽食べたら元気出るかな」
「出る出る。元気百倍だよ」
 いち、に、さん、し、ご・・・。君がぱっと顔を上げた。
「元気出たー」
「もう出たの!?それじゃもう一回練習する?」
「やるー」
 二人で自転車を起こして、僕が押さえておいて、君が跨る。
「それじゃ手を放すよ」
「待って」
「いい?」
「いいよ。ママー見ててー」
 妻が手を振って答える。君はそれを合図にえいとペダルを踏み込んだ。うん、ぎこちないけど、いい感じだよ。
「上手だよ、頑張れ」
「パパちゃんと来てるの?」
「来てるよー」

 少し後ろを走って追い掛ける僕。大丈夫。ちゃんと見てるよ。大丈夫。何回こけたって起き上がればいいんだから。僕は君たちから決して目を離さない。生涯、君たちを愛してるよ。

                       おわり



世界中の子どもたちが笑顔で生きられる世の中でありますように。
                               

                        2022年  いち




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