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読切りよりみち「僕はこの時、この人の普段の顔が見てみたいと思いました」(中編)


 彼は入社して直ぐに甘党の男と近付きになった。男が彼の新しい環境へ慣れるべく仕事の教育係を任された為であったが、彼はこれを単純に嬉しく思った。人懐こい笑顔を浮かべる、ワイシャツの袖を捲り上げていつでも快活に働くらしい男は、刈屋と名乗った。話してみれば尚心やすい人柄であるのも実感した。そして社長が言う程の猫背でも無い様に思った。試しに彼が、
「背が余程高いですね」と云うと、目尻に皺を寄せた刈屋は、
「バレーやってたから」と返した。
「そんなに高いと反対に困りませんか」
「うん、困る。それで猫背だったけど、社長に勿体ないって云われたから、また直している処だよ」
「へえ。確かに、姿勢良い方がかっこいいです」
 刈屋は照れたようにはにかんで、袖を更にもう一つ折った。

 彼は、彼にしては思い切った今回の人生の選択と決断を、働き始めて数か月が経った後、遅れて漸く褒めるに至った。いつの間にか稼ぐことよりも、仕事そのものへの興味を十分に持っている自分の存在に気がついて、妙にこそばゆいと思いながらも同時に誇らしいと思った。案外な心持ちで黙々と仕事に集中した彼は、そろそろ会社の中に於いてある程度の余裕を生み出すに成功し、仕事に集中するの外にも、もう一つ密かなるささやかな楽しみを持っていた。

 彼の元々の正直から云わせれば当然の成り行きでもあったが、彼の楽しみは端的に云って社長の観察にあった。と明かされて決して法外な、又悪質な物等では無く、男児が机上で妄想膨らませるような、乙女が枕に両肘載せるような、その実可愛らしい程度のものである。彼は己のデスクに腰を据えては、仕事の合間に、彼等と同じフロアの一角で常に忙しなく動かざるを得ない女社長の動向を観察していた。社長は相変わらず、全然隙の無い人間であった。後ろ処か前後左右死角無く見渡す広い瞳を持っている。自身の立派なデスクに大人しく腰を据える時間を中々作ろうとしない、恐ろしく活動家であった。けれども就業時間と休日の曖昧なのは許さない人であった。社員へも自分自身へもメリハリを大切にさせたい人であった。そして、初めて街の珈琲屋で推察した通り、潔癖と呼んで差し支えない奇麗好きで、毎日の掃除は勿論のこと、自分の物だけでなく社員全体の整理整頓にも厳しい人であった。おかげで彼もすっかりデスク周りの整理整頓が上達して、今では自宅にもその片付け習慣が浸透しつつあった。そして彼のこの変化を誰よりも喜んだのは、来年とうとう生涯を共にする意を誓い合った彼女であった。

 そう彼は人生に於いて山と谷とがあるのなら、若くして既に頂上へ登り詰めつつあるものかと自分の目にも他者の目にも映る程順調に、日々を充足の内に終える生活を送ることが叶っていた。こうまで思い通りに駒が進むと、反対に彼は不安であった。だが満たされる日々は何も彼一人が齎したわけでなく、例えば隣を歩く彼女が、或いは人生の指針を定めた先の会社の中で出会った、志を同じくする社員の連中とが、彼に対して望外に齎してくれた産物であった。それで彼は、確かに不安を抱きもしたが、どちらかというと如何なる山であろうとも谷であろうとも越えるだけの気概と勇気を胸に抱く気持ちの方が強かった為、現在にも未来にも漠然とではあるがありのまま幸せを感じる事が出来た。

 己の心持ちが幸せに満ち溢れた彼であったので、他人の幸せにも敏感に反応することが可能であったと云えた。それが彼を入社から数カ月を経て、未だ社長への興味を下火にさせる処か寧ろ積極性を増して観察させる所以である。

 彼は観察の中で、自分の入社当時と比べても、社長の気配が明らかに解れていると感じていた。当時、会社の中からこの社長を眺めることが可能になってみて、予想以上に自分を律する態度と行動とに、彼は幾度も驚かされる事になった。それは単純に人の上に立つ者の責任から来る物か、或いは彼女の性質から来る物か、或いはもっと他に彼の知る由もない深い事情が在っての事か、彼には判断が付けられなかったが、それにしても実直に過ぎるのではないかと、感心するよりも呆然とした程であった。ところが日を追うごとに、ただ張り詰めるばかりの弦が人の手に拠って少しずつ緩められ、まるで周囲と調和するべく調律されるかのように、社長の全身に纏う厳しい気配は、ただ厳しいのでなく、凛とした背筋を残したまま、何かしらの優しさが滲むようになったのだ。この変化は最早彼一人の感想ではなく、社員が等しく抱く安心であった。腕捲りの刈屋は彼に向かって「星乃が入った御蔭じゃないか」と調戯(からか)った。彼、つまり星乃はこれには苦笑いを浮かべた。若い女性社員は私生活の充実を予想した。星乃も実はプライベートの方面に想像を膨らませたが、あんまり不躾なので大概そうだろうで止めにしたのである。勤続の長い社員は何にも言わなかった。ただ社員間の安心だけを共有する積りらしかった。

 ある梅雨の日、オフィスの外は昼間でも墨を落としたような空模様でどんよりいつまでも暗かったが、フロアには天気と関わりなく灯りが煌々と、彼等の頭の天辺と綺麗に片付いたデスクとを照らしていた。星乃はパソコンを使う手を時々休めながら、例によって女社長の働きぶりを眺めていた。社長のデスクの上にはプライベートも含まれたスマートフォンが置いて在るが、就業中は外出の社員や取引先からも連絡が寄越されるため、時々視線を運ぶのが常であり、この時も画面が点灯したらしく、目線はスマートフォンへ落とされた。一度見て、手に取って、睫毛を微かに動かして、タップした。その瞬間、星乃は眼を瞠った。


※読切りよりみち(後編)に続く―


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