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瞑想の道

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真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。
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2024年7月の記事一覧

瞑想の道〚26〛世界の役割

 世界は完璧だ。完璧な潮流の中にある。そこでどんな幸福や不幸があろうと総合的に完璧なのだ。自我は幸福であるとき、世界を祝福するだろう。不幸であるとき、世界を呪うだろう。自我がその境遇をどう評価しようと、世界は何も気にしない。世界は世界の動きをするだけであり、誰かが不幸になって嘆くことさえ、世界にとっては完璧な中での出来事なのだ。不幸な自我は幸福になりたいと思うだろう。そうなるために何かの努力をするかもしれない。あるいは、何の努力をする気力もなく、向上心もなく、人生を終えるかも

瞑想の道〚25〛自我の幻想

 世界は幻想であるという説がある。そこに生きている自分も幻想。だから努力しなくていいし、何も問題は起こっていない。本当にそうだろうか。そう信じれば、生きることが楽になるのだろうか。そこで起こる安堵感や解放感が自分の求めていたものなのだろうか。実際には世界が幻想かどうかは考える必要のないことだ。夢の中でこれが夢だと分からないように、幻想の中ではこれが幻想だと分からないようになっている。たとえそれが幻想だと分かったところで、夢のようにそこから覚めて何かの現実に戻ることはないのだ。

瞑想の道〚24〛非二元と私

 この世界の自我が非二元を論じるとは興味深い現象だ。非二元について、この世界の一般的な概念や論理で語ることは難しいことであり、それを理解するには、それ相当の瞑想修練が必要になる。非二元についての基本となる感覚なしに、自我がそれを理解することは不可能に近い。つまり、それについて考えても理解できないのであれば、意味がないことになる。実際に、非二元で語られる、すべてはひとつであることや起こることは完全であること、すべては愛であるについて、何を根拠に信じればいいのだろうか。どこかの高

瞑想の道〚23〛信仰の目的

 宗教を信仰することは特別な人類の歴史であるといってもいい。宗教信仰についてはそれぞれに賛否があるかもしれない。それを救いであると感じる人もいれば、人を貶める害悪だと思う人もいる。宗教には信仰の対象となる神や聖者がいる。原則的にそれらは人々に何らかの目的を告げる役割を持っている。神や聖者はその目的を達した者であり、その目的の重要性を知っているか、あるいは、目的そのものであるかもしれない。いずれにしても、宗教信仰には人を導くべき何らかの目的地があって、そこにたどり着くための方法

瞑想の道〚22〛不老不死

 真我を悟るとは、自分が真我になるということだ。それは自我を自分とすることからの決別であり、その時点で、自分は自我から離脱したことになる。自我の身体はいずれ年老いるか病気によって、この世界でのその活動を終えるだろう。だが、その終焉を迎える前に自分が真我になったのなら、その時点で自我としての自分は終焉を迎えたのだ。そうなったのであれば、その後に起こる身体の死さえこの世界におけるひとつの現象となり、すでに自分にとっての死ではない。真我実現において、自我は世界に戻され、世界の現象の

瞑想の道〚21〛真我の印象

 真我をどう感じるかは自由だが、その感じたものが真我の本質とは限らない。それはあくまでも自我が感じたことであり、つまりこの世界の感覚に依っている。真我には姿かたちがなく、そこに何の活動もない。それが真我の本質であり、実際にただ存在しているだけなのだ。それに触れて、至福や愛、暖かさや守護を感じたとしても、それは世界における感覚であり、真我という存在の本質にはならない。それでも、例えばそこに至福を感じれば、それは真我が自分に与えてくれた経験であると感じて、その記憶を大切にするかも