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【小説】 ロストマン ③

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 こうちゃんへ

 おはよう。
 ほんとはもっと早くに伝えなきゃいけなかったんだけど、タイミングが分からなくて、ギリギリになってしまったこと、謝ります。ごめんなさい。昨日の夜も結局言えなくて。便せんに、汚い字でごめんね。
 一ヶ月後、九州の支店に転勤になりました。入社してすぐに会社から相談されてて、でも私はこうちゃんと離れたくなかったから断っていて。会社もかなり困っているみたいで、ずっと転勤の話をされ続けていたんだ。
 きっかけは、きっとこうちゃんのことなんだと思う。
 私、最近ずっとこうちゃんに怒ってたね。卒論のことで。なんで書かないの、なんで進んでないの?って。なんでなんでって。
 私も焦ってた。こうちゃんを大学卒業させなきゃって。
 なんか、上から目線だよね。これからもずっと一緒にいたいから、だからこうしてほしい、ああしてほしいって、こうちゃんを自分の都合に合わせている自分が嫌になってきて。私の顔色をいつも気にしているこうちゃんを見るのも嫌で。私はこうちゃんのなんなんだろう。
 そんなふうに嫌、が重なっていって、自分の気持ちが分からなくなって。毎日疲れてしまって、こうちゃんと会話もうまくできなくなっていたと思います。

 長くなっちゃってごめん。
 こうちゃん、私たち、お別れしましょう。
 私は九州へ行きます。
 アパートは一ヶ月分の家賃は払ってあるので、その間に──。


 その間に引っ越すか、それともアパートに住み続けるか決めなくてはならない。智美の荷物は処分してかまわない。大事なものは実家にあるから。
 処分のための費用が目の前に置かれた封筒の中に入っている。十分過ぎるほどの紙幣が、その中に。
 康介は重力に逆らうことを忘れて、ただ放心しながら椅子に座っていた。何時間も、日が暮れた後も、ずっと。
 丸二日、智美のアパートから出なかった。
 その間に気が付いたことは、智美はいつの間にか下着や衣類を整理していたのだった。収納の中の衣装ケースはほとんど空になっていたし、今までリビングに乱雑に置かれていた書類関係も綺麗に無くなっていた。
 そんな“変化”に今まで全く気が付かなかった自分に康介は愕然としていた。何も見てはいなかった。間違いなく、智美の姿さえも。

 ──謙虚な気持ちを忘れた途端に、足元から崩れ落ちていくような脆いもんが生活なんじゃないかって思う。

 先日聞いた瑞穂の言葉が、鋭い刃のように康介の胸をズタズタに引き裂いていた。

 三日目の朝、冷蔵庫の中身がすっかり空になった。
 グウと腹がなって、こんな時にも腹が空く自分に怒りが込み上げてきたものの、どうすることもできない。怒れば余計に腹が減った。
 康介はようやく外出する気になった。無精髭にも寝癖にも気が付かないまま、灼熱の太陽が照り輝くアスファルトを歩き出した。
 歩いて十分ほどの距離にあるスーパーマーケットへ向かいながら、康介はスマホの画面を見つめていた。智美からの連絡は全くなかった。何度も電話をかけようとした康介だったが、結局それもできずにいた。
 ただただ、怖かった。着信拒否をされているのが分かった瞬間のことを思うと、どうしても通話のボタンが押せなかった。考えすぎだ、勇気を出せとどんなに己を鼓舞しても。
 俺はこんなにも小心者だったのかと、康介は改めてそんな軟弱な自分を知らしめられたような想いだった。

 スーパーの外観が見えてきたとき、ふと右前方に目がいった。
 『古本、買い取ります』
 紺地に白抜きの文字ののぼり旗が歩道に立っていた。智美のアパートに居候することになってこの街が生活の起点となっていたのだけれど、古本屋があったことに気が付かなかった。
 “気が付かなかった”ばかりの自分に自虐の笑みを浮かべながら、その古書店の前に何の気なしに康介は立った。
 ガラス扉に色褪せた金文字で『夢屋書房』とある。
 本なんて読みたい気分では全くないのだけれど、なぜか自然と足が向いてしまった。
 
 チリンチリン。
 
 扉を押し開けると同時に頭上から鈴の音が聞こえて、途端にカビ臭い匂いが康介の鼻先に漂う。薄暗くて狭い店内には壁一面に棚があり、中央にも三列、康介の身長ほどの棚が並んでいる。向かって左の壁の棚に『あ』というプレートが挟まっている。とりあえずそこへ向かって進んでいった。
 作家の名前や作品名を追っていくと、心なし気分がウキウキとしてくるのを康介は感じた。相変わらず空腹ではあったものの、一心不乱に背表紙を見て回った。
 『え』のところまで流しながら進んでいくと、『江戸川乱歩』で歩みが止まった。ふと、懐かしさを覚えて立ち止まったのだ。
 『江戸川乱歩 少年探偵(十二) 海底の魔術師』
 それは小学生の頃、康介が初めて読んだ“小説”だった。どうして初めての小説が江戸川乱歩の、しかも少年探偵団シリーズの十二作目という中途半端なところからだったのか、今となっては全く思い出せない康介だったが、それを手に取ると自然と笑みが溢れた。
 この『海底の魔術師』がきっかけとなって、夢中でこのシリーズを読み漁った子供時代が蘇ったのだ。いじめっ子に叩かれようが、上級生とつかみ合いの喧嘩をしようが、それはそれ。読書は読書。康介には辛い現実とは全くもって無関係なこの“物語の世界”が常に頭と心の中に広がっていた。そんな昔の自分の姿を思い出していたのだ。

──いらっしゃい

 不意に店の奥、康介の立つ位置からは死角になっている方向から声がした。低く良く通る、年配の男の声だった。おそらくはこの店の店主だろう。
 グウと、再び腹が鳴った。空腹の限界を感じた康介は、とりあえず偶然に見つけた思い出の一冊を手に取り、店主の声がした方へと向かっていった。



(最終話に続く)



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