見出し画像

【小説】 ロストマン ②

前回はこちらから


 
 日が暮れたあとの誰もいない公園のベンチに康介は腰を下ろした。隣接するマンションの各家庭から漂う夕食の香りが鼻口をくすぐった。幸せそうな香りだった。
 ハーフパンツのポケットからスマホを取り出すと、電話帳を起動させてスライドしていく。ダラダラと眺め続けて数十秒、康介の目に一つの名前が止まった。結局のところ自分はここを目掛けて指を動かしていたことに気がついて、内心で苦笑った。

 川嶋瑞穂。

 康介の二つ上の先輩で、大学を卒業するとフリーのイラストレーターを職に選び、趣味のジャズバンドでピアニストとしても活動していた。飄々とした自由人。康介はそんな彼女に長いこと憧れを抱いていたし、友人知人の中で康介が頼ることのできる数少ない人間の一人だった。

「おー、皆川、久しぶりー。そうだお前こないだのライヴ、せっかく誘ってやったのになんで来なかったんだよー」
 相変わらずの飾り気のない瑞穂の口調に、康介は自然と口元を綻ばせた。
「俺も意外と忙しいんすよ」
「あー、そっか、卒論か。留年してるしな。どーよ、はかどってんの?」
 ギクリ、と康介の心臓が悲鳴を上げた。
「それが・・・・・・」
「あー、そんで唐突に電話してきたんか。しょうがないなー。テーマくらいは決まってんだろ?もちろん」
 言葉に詰まって二の句がつげない康介に向かって、スマホから「くくく」と短く特徴的な笑い声が聞こえてきた。
「万事休す、ってやつだな。で、どーすんの?まさかそれをあたしに求めてきたってわけ?皆川クンよ」
「違う、違いますよ!まぁ、その、大体は自分の中で見えてきたっていうか、なんつーか」
「ふーん。で、その見えてきたもんをトモミンには伝えたわけ?」
 トモミンとは智美のことで、康介は咄嗟についさっき突き放すように飛び出してきた部屋にいる智美のことを思い出して再度心臓がキリリと痛んだ。
 くくく、とまた笑う瑞穂。今度はさっきよりも長い。
「まったく、あきれるくらいに嘘がつけない男だなー、皆川。電話の主題は卒論のことじゃなくって、お前の漠然とした決意のことでもなくって、トモミンのことなんだろ?はじめっからそう言えよ。だからモテないんだよ昔からお前は」
「もうちょっと優しく言えないんっすか?あなたは」
 そう口にした瞬間に、康介は唐突に思い出した。いつだったか、瑞穂に言われたあの言葉。

「皆川がちゃんとしないとなー、そんでトモミンを支えてあげないと、すぐに逃げられちゃうぞ」

 この人が言ったことだったのか。
 それをそのまま、当の本人に伝えると例のくくく笑いがまた聞こえてきた。けれど今度はとても短い。
「皆川さ」
「はい?」
「慣れってさ、アレ、実はかなり怖いんだわ。わかる?」
「え?あぁ、はい」
「お前が来なかったこないだのライヴでさ、あたしピアノとちったんだよね。ズブの素人が聞いててもわかるほどの、もー単純なさ、技術的なミスよ。笑っちゃうくらいな。でもさー、もちろん目の前のお客は誰一人笑ってないよ、ほんの一瞬だったから。まー聞き流すわな。でもさ──」
 真夏の夜の生暖かい風が一つ、ベンチに座る康介の頬を撫でていく。少し先に立っている街灯にカナブンがバチバチと何度もアタックしていた。
 康介は瑞穂の声に集中する。
「フロントマンのギタリストがさ、振り返ってあたしを睨みつけてきたわけ。もうね、目で殺してきたね、あたしを。一瞬の、お客が聞き流すようなミスでも、あいつは許さなかった。聞き逃さなかったんだ。でもさー、ライヴが終わって打ち上げが始まっても、あいつなんも言ってこないんだ。さっきのアレだけど、とか、なーんもないわけ。こっちはずっと生殺しですわ」
「キツイっすね、そりゃ」
「うん。でさ、あたし酒も入ってきたし、自分から切り出したんだ。久しぶりにやっちゃってごめーん、みたいなさ、軽いノリで」
 康介は学生時代の瑞穂の雰囲気を思い浮かべた。その時の彼女の様子が手に取るようにわかるようだった。
 瑞穂はそのギタリストからこんなふうに切り返されたらしい。

「いいんじゃねぇの?客と一緒に楽しめたんなら」

「あいつ、それを真顔で言うんだぞ?もー、チビりそうだった。いや若干チビったかも。こわかったー」
 コホンと軽く咳払いをしてから、瑞穂はどこかあらたまったような声音になって、康介に語りかけた。
「あたしはお前のこと、弟みたいにかわいいやつだって思ってるんだ。だからさ、皆川。よーく聞けよ。お前のため。この“慣れ”ってのを生活に持ち込むとさ、危ないんだ。要は“当たり前”なんてもんは生活においては一つもないわけ。謙虚な気持ちを忘れた途端に、足元から崩れ落ちていくような脆いもんが生活なんじゃないかって思う。だからさ──」

 ──お前も謙虚に頑張れ。あたしはピアノの練習をサボらずにやるわ。

 結局、瑞穂は康介に一度も智美のことを根掘り葉掘り聞いてきたりはしなかった。その代わりの、もっとズシンとくるような助言があった。

 康介は真っ直ぐに智美のアパートへと戻っていった。本当はコンビニに寄って智美の好きなシュークリームでも買っていこうと思ったのだけれど、財布を持って出なかったことに早々に気付いた。
 たどたどしく頭を下げて声を荒げたことを謝った康介に、智美は文句も何も言わなかった。ただ、
「お腹、すいたね」
と、冷蔵庫から昨日の残りのカレーを出して火にかけて、そうして二人向き合ったテーブルで黙々と食べた。
 智美は一度だけ、
「やっぱりちょっと辛かったね」
 それに康介は小さく頷いた。

 翌朝、テーブルの上に一枚の便箋が置かれていた。

 康介はそれを呆然としながら、ただ読み返し続けることしかできなかった。

(続く)

 

この記事が参加している募集

眠れない夜に

つくってみた

サポートの程、宜しくお願い致します。これからも、少しでも良い作品を創作して参ります。サポートはその糧となります。心に響くような作品になれば幸いです。頑張ります!