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【映画エッセイ】悪は陰陽の前に存在しない


『悪は存在しない』という映画を見て、ムムッ、ピーン!ときたのでネットレビューを調べました。
すると映画を分解・考察する投稿が多いのですね。

監督の意図は?物語の真意は?

衝撃的なラストに引っ張られて、そもそも何を見ていたんだ?と不思議が湧いたムヤムヤを昇華したいのかな。

意図や真意だけを追いかける考察の入口では、この映画のほんとうの豊穣を味わえないと思います。

『悪は存在しない』を見て人生が変わるひとがいるかもしれません。
とくに映画に慣れておらず、あるいは若者、またはこれから初めてアート系の映画を見ようと考えているひと。
私自身、大学生の時に、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』を見て芸術というものの先入観を考え直した経験があります。
それがいまの自分に与えている影響はとても大きい。

今回は、『悪は存在しない』を見た私の体感と絡めて、みなさまの考察となる一助を書けたら良いな、と思いつつ書いていきます。
少々ネタバレを含むので、映画を見終わった方向けの記事です。

私のオリジナル観点は、「陰陽」です。


『悪は存在しない』に対立は存在しない


長野県のある架空の町で暮らす主人公・巧と花。
ある日、その町に巨大グランピング場の建設という話が舞い込む。町の住民たちは、建設に踏み切った芸能事務所の説明会に参加する。

ここまで書けば分かるように、町の住民/芸能事務所という対立が映画内で描かれます。
でも、これを明確な対立と受け止めてはいけません。

民俗学者・宮本常一の「忘れられた日本人」という本には、みんなが納得できるまで物事の決定を下さない古き漁村が描かれます。
つまり、日本的な町の話し合いとは、参加するひとたちが自分のこころをあらわにしながら、物事がいいかよくないかを語る場所。

『悪は存在しない』に登場する町の住民たちが考える話し合いも、立場や役割を脱ぎ捨てたひととひとの対話でした。
自分がひとなら、相手もひと。

しかし、芸能事務所のふたりの会社員は、会社の決定事項を押し付けることしか考えておらず、町の住民たちと話し合いをする姿勢を見せません。

自然が、この森や山が、移住してきた人間の生活をしずかに包み養うのと同じように我々も変化を否定することはしない。

ただ、ここには人間が住んでいる。

人間が住んでいる場所に変化をもたらす以上は、そこに納得できる対話がなければいけない。人間は自然ではないのだから。

(以上、町のリーダー的おじいちゃんと巧の意見。うろ覚えの意訳です。エヘへ)


自分たちには地域と向き合う真摯さが足りなかったのだと、建設計画の不十分さに気付かされる会社員のふたり。

もっと建設地のことを知ろうと、住民たちの食べるものを食べ、仕事を手伝います。
明確だった対立関係が溶け合い、ぐにゃりと混ざり合う。

立場でしかものを考えていなかった東京の人間たちが、少しずつ理解を示そうとする。そこには一種の感動もあります。

「ああ、これは都会の人間の成長物語なんだな」


そう、問題なのはここ。

これが映画の考察におけるひとつの分水嶺だと思います。

なにが言いたいの?はたぶん禁物


詳しいストーリーラインは省きますが、芸能事務所のふたりが親しみやすく面白く描かれているので、彼らに感情移入してしまった観客は、ほぼ必ず、この映画の最後によって強い裏切りと寂しさを覚えることでしょう。

「なんでああなった??」

観客が映画に幻想していた、こころの繋がりが断ち切られ、虚空にぶらりと垂れ下がった同情の気持ち。

断ち切られたことにこそこの映画の意味があったと、受動的な観客はあれこれ解釈を施そうとします。
ああなるほど。これにはこういう監督の意図があって、ここには映画の真意がホニャホニャ・・・

いやいや。ここではもっと頭で考えず、意味のないところを意味がないままに、体感のまま、それっぽく受け入れてみましょう。


この映画、冒頭からストーリーらしいストーリーをそもそも追っていないところにまず注目です。
はじめにカメラに映されるのは、自然のはだか。
梢に空。
そのシーンの非常な尺の長さ。

私は最初、圧倒的な尺の長さに「なんやこれ」と思いましたが、この梢は見上げているものではない(つまり、登場人物の心情やストーリーを表す描写じゃない=描写にストーリーの解釈を含めなくていい)と考えてから、枝々のあまりの美しさに目が奪われるようになりました。

この映画はストーリーに重きが置かれていない、という可能性。

冒頭、芸能事務所の説明会が行われる前まで、ありのままの自然の描写が続きます。

「これ。陸わさび」
「うん」
「おれもってくから」
「はい」

こんなふうに、ふくらし粉を入れなかったパンのごとくぜんぜん話題が膨らまない登場人物たちの会話にも、ありのままの自然さが現れています。
確かに、私たちの日々の会話なんてこんな程度かもしれませんよね。

「これ洗濯物、タンスにもってって」
「靴下?」
「パンツも」
「わかった・・・持ってった」
「ありがとう」

完。こんな感じです。
この洗濯物の会話は映画にありませんが、こういうぶつぎりの言葉の応酬には、言葉以外の感情を伝え合い受け取ることができる、深い関係性が滲み出ている気もします。

ちょっと脱線しましたが、「自然のシーン」を考察的に言うのなら、
映画の冒頭からこんな物語的魅力のない描写をするのは、この映画に物語的な意味はない、あくまで人為よりも「自然」に近寄る作品なのだという、映画監督の宣誓だとは思えませんか。

そのあとに続く、
森に住まうひとびとの小さな営為。薪を割る肉体。梢を見上げる顔。
自然環境と精神的にも肉体的にも溶け合ったひとたちの、美しいショット。

この映画は思考よりも体感の鋭さを求めているのかもしれない。

私はストーリーラインを頭で追うことをやめて、ひたすら体感の感受性だけで映画に立ち向かっていこうと考え直しました。

じゃあ、あのラストはなにさ?~本当の対話はここから始まる


感受性だけで見るというのは頭で考えず、言葉で思考せず、ようは理解の枠組みを作らずに、それそのものの動きを見るということ。
ストーリーはむしろ余興。シーンに籠もっている魂だけを追っていきます。

すると、あのラスト。
唐突な暴力性の発露には、ストーリーとして突拍子がなくても、じつは符号があることが分かります。

「やりすぎたら、バランスが壊れる」


グランピング場と町の接合点のようなアドバイザーという仕事、町に入れ込む会社員のふたり。
そもそも東京の会社員なのに、町で暮らす住民の仕事を手伝い「すぎて」手に怪我を負った黛。
鹿の水場に落ちていたのは、いつものようなキジではなく、都会でも見かけるカラスの黒羽。

ふたつの均衡が瓦解し、森には不穏な迷子の放送が流れるとともに、生き物のような霧が渦を巻く。

そのままで良いはずのものが接近してバランスが壊れていく。
つまりそれは、お互いが溶け合い始めるということです。
お互いが隠していたこころをさらけ出し、それを認め合う形になれば、ふたつはひとつになる。
会社員のふたりは、町に向かう車中でこころを開き合い、住民の言っていたことに賛同し、「会社を辞めたい」と立場を投げ捨てました。

それでは、町の抱えているほんとうのこころとは?

これまでの巧の、他者に対して示した、一貫して中立的な姿勢。
許容範囲が広く穏やかな雰囲気。
それが一変。
吹き出すようにひとを捻じ伏せる暴力性。

そうです。
土地を壊そうと思ってやって来たはずのひとを、彼らがこころ変わりしたからといって、どうして受け入れなければいけないのか。
巧の中立的な姿勢もまた、自分のこころを立場に隠している振る舞いに過ぎなかった。
そうして裸にされた広い草原で、巧は会社員にこころをさらけ出し、ぶつけ合う。

受け入れるべきという一面と、受け入れがたいという一面のせめぎ合いは、受け入れがたいことが勝利する。
それが、都会と町との均衡を崩した結果でした。

ここでふと思います。

あれ?
巧の二面性って自然環境と、同じじゃんか。


樹木や山は穏やかに、日の光に当たり、梢を吹き抜ける風に揺れる。
そこに住まうひとを受け入れ、新鮮な水や野菜を与え、ときにはこころを和らげてもくれます。

しかし、あまりに突発的な、脈絡のない災害。
人為による介入に耐えかねて崩れる、地震や津波。土砂崩れ。台風。

自然環境の二面性と巧の二面性はとても似ています。
二面性とは、すなわち陰と陽。
陰陽思想で言う陰陽とは、物・事には陰と陽があり、それらは反発し合うように見えるけれど実際は、境目なく混ざりあったひとつの位相なのだという観察から生まれた考え方です。
陰は陽であり、陽は陰であること。
冒頭のシーンでは明るく美しい梢が、ラストシーンでがらりと変わって不穏な影に変わるのも、陰陽を感じさせます。

しかし、陰陽はありのままの姿の観察であって作為はないから、正義も悪もない。
頻繁に災害が起きるからといって、あるいは生き物に恩恵を与えるからといって、自然環境に悪意も故意も嘘も本音もありません。ただただこころの赴くままに、無邪気に振る舞うだけです。
相性の合わないものは突っぱねて、相性の合うものはすくすくと育てる。
建前を外したこころのありのままの姿。

そこに、悪は存在しない。

娘の花もまた壊れたバランスの中で動いています。
手負いの鹿に、傷口を癒やしてあげようと帽子を取って近づくのは、ひとの思いやりの「過多」。
しかし、陰が陽になるのなら、陽であったものは陰になる。
適度な距離感を保てない鹿は猟師に撃ち殺されるのと同じように、花もまたその境界を越えてしまいます。

「やりすぎたら、バランスが壊れる」


主人公は自然環境


カメラや文章が自然環境を映していても、ひとが作ったなら、そこにはどうしても過去や意図があり、物語が生まれてしまいます。
その時点で、自然環境がありのままであることのバランスを壊すことになる。
カメラに映るのは、バランスが壊れた自然環境、あるいは自分たちが壊したという事実の残骸に過ぎない。

だからこそ、私は『悪は存在しない』は、自然環境をほんとうの主人公に据えたモキュメンタリー(ドキュメンタリーの手法で撮られたフィクション)ではないかと思うのです。
壊れてしまうその姿を、どう壊れていくのかを映す。

自然環境のことは分かるんだ、という、監督による一種の飛び込みでもあります。
それは非常に恐ろしい試みです。分かることはできない、理解できない、という前提を跳躍する勇気を振るうのも恐ろしいですが、大きく跳躍したところには何が待っているのか。

ひととひととの対話、自然環境とひとの関係。
どこに均衡を保つべきか。


(C)2023 NEOPA / Fictive


お読みいただきありがとうございました。
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