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森博嗣『φは壊れたね』ガチ考察

今回は私の大好きな作家、

森博嗣(もり・ひろし)さんの『φは壊れたね』について、徹底的に考察していきます!


※以下、ネタバレを含みます!!



◆この記事の位置付け

この記事では、他のブログなどであまり紹介されていない伏線・考察に絞って話すことを目指す。

なぜなら、すでに他のブログなどで語られていることは質が高いものばかりで、今さら私が付け足せることが少ないからである。

そのため、以下の考察は、あくまで私の推測である、という点を念頭に置いていただきたい。


※以下では文字数を短くするために、
『すべてがFになる』を『すべF』
『有限と微小のパン』を『パン』
『φは壊れたね』を『φ』と略します。


◆この記事の構成

この記事は、大きく次の3つの構成で成り立っている。


1。「”φ”とは何か?」の考察

2。「”G”とは何か?」の考察

3。その他の考察


この流れで読んでいくことで、おおよそ、私が考察した内容をご理解いただける・・・と思う。(そう信じたい。笑)

【1】早速の核心——”φ”は何を意味するのか?


結論、”世界の境界線”——だと、私は考察している。


これはあくまで「私の考察」であることをご承知いただきたい。

ただ、全く故なき推測ではない。


そもそも、この”φ”という記号は、数学で「空集合」を表す記号だ。


「φは壊れたね?」西之園が繰り返す。(中略)
「φっていうのは、何に使う記号ですか?」鵜飼は西之園と国枝を見てきいた。(中略)
「空集合」国枝が珍しく口をきいた。」

(『φ』p.136)


実際に作品中でも、空集合について言及されている。

空集合とは、簡単に言えば「当てはまるモノが0のグループ」だ。


たとえば、サッカー部しかいない教室に行って、

「バレー部の人、あつまれー!」と言っても、誰も集まらない。

この「バレー部のグループ」は0人である。


これが「空集合」だ。


なので、簡単に言えば、

「φは壊れたね」は「空集合は壊れたね」と言い換えられる。


ただ、これだけでは、意味が通じない。

なぜ「空集合」が「世界の境界線」になるのか——その点を、ここから掘り下げていきたいと思う。


◆『φは壊れたね』の裏テーマ=「世界の境界線」


この記事の冒頭で、φは”世界の境界”のことだ、と考察した。

その理由を、ここから説明しようと思う。


『φは壊れたね』(と、Gシリーズ)の裏テーマは「”世界の境界線”を壊す」こと


——真賀田四季が。


このように考えるので、”φ”=”世界の境界線”と考察したのだ。


ただ、これだけ言われても、正直さっぱり分からないと思う。

なので、ここから、φと世界の境界線、そして真賀田四季をつなげる考察をしていこうと思う。


まず、『φは壊れたね』以前までの、森博嗣さんのシリーズものをおさらいしよう。


(1)S&Mシリーズ(『すべF』はこのシリーズの1作目)

(2)Vシリーズ

(3)Gシリーズ(『φ』はこのシリーズの1作目)


このGシリーズの特徴をおさらいしよう。

・S&Mシリーズに登場した、西之園萌絵が再び登場する

・全作品にギリシャ文字が含まれる(『θは遊んでくれたよ』など)

特徴はざっくりこの2点である。


Gシリーズでは、大学院生となった西之園萌絵が再登場する。

『すべF』では萌絵は大学1年生だったので、S&MシリーズからGシリーズの間で、約5年の時間が経っていることが推測される。


萌絵が再登場することからもわかるように、

GシリーズはS&Mシリーズと関連の強いシリーズと言える。


「関連の強い」とは、ざっくり言えば、

「Gシリーズのストーリーには、真賀田四季が裏で一枚噛んでいるのでは・・・?」という確率が高い、という意味である。


・・・はい。きました。

森博嗣さんファン垂涎の真賀田四季の伏線です!!!!!!

これだけでご飯10杯は行けると言っても過言じゃない!!(過言)


つまり、Gシリーズを読む上で、真賀田四季の存在を念頭に置いておくと、伏線を見抜きやすいとも言えるでしょう。


では、改めて、S&MシリーズからGシリーズまでの流れを確認しよう。


◆S&Mシリーズ:INSIDERからOUTSIDERへ


S&Mシリーズでは、裏テーマとして「真賀田四季の脱出」が設定されていた。

『すべF』のストーリー自体が、真賀田四季が密室から脱出する話なので、この点は理解しやすいと思うが、話はそれだけではない。


S&Mシリーズの1作目の『すべF』最終作の『パン』には、それぞれ、次のような英語の副題が付けられていた。


・『すべF』:THE PERFECT INSIDER

・『パン』:THE PERFECT OUTSIDER


インサイダーからアウトサイダーへ——内から外へ。

ちなみに、S&Mシリーズの真ん中となる5作目、『封印再度』の英語の副題は『WHO INSIDE』だ。

これは2通りの解釈ができる。


「誰が中にいるの?」——真賀田四季。

「誰が中にいるだろうか?」——いや、誰も中にはいない。


「疑問」と「反語」の2つの解釈だ。

おそらく、このどちらの意味も含んでいるだろう。


はじめ=1作目では「INSIDER」であり、

真ん中=5作目で「WHO INSIDE」と問われ、

ラスト=10作目で「OUTSIDER」になる。


真賀田四季の内から外への脱出——。

でも、一体「なんの」内から外なのか?


(犀川)「彼女に会えば、抜け出せるかもしれない」
(萌絵)「どこから?」
(犀川)「この世界から」

「2015年10月放送アニメ「すべてがFになる THE PERFECT INSIDER」PV」より。最終閲覧日:2021年8月26日。


◆『φ』の引用文——ヴィトゲンシュタイン


先述の「内から外へ」を受けて、『φ』にはじまる「Gシリーズ」が始まる。

実は、『φ』自体(=事件のトリック)のヒント、そして、Gシリーズ全体のヒントとなるモノがある。

『φ』に挿入された引用文である。


森博嗣さんのミステリでは、毎回1つ(あるいは複数)の作品の引用文が載せられている。

『φ』に使われているのは、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だ。


実は、この『論理哲学論考』(以下『論考』と略します)が大ヒントなのである。


この本は超絶むずかしい哲学書なのだが、ここで知っておいていただきたいのは、この『論考』がまさに「内」と「外」、さらには「境界線」を議論した本である、ということだ。


『論考』からいくつかの文章を引用しよう。太文字は私が加筆した。


5.6 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。

5.632 主体は、世界の一部ではない。そうではなく世界の境界である。

6.4 世界の意味は、世界の外側にあるに違いない。(中略)世界のなかには価値は存在しない。


——まさしく、S&Mのテーマであった、内と外について議論されているのだ。


さあ、”φ”と”境界線”を結びつけよう。


この『論考』では、「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」との言葉があるように、内と外の境界線を言語によって引いている。


要は、

語り得るもの=世界の内側

語り得ぬもの=世界の外側

という図式である。


さらに、『論考』では、「生と死」も「内と外」で議論している。


6.4311 死は人生の出来事ではない。死を人は経験することがない。永遠とは、はてしなく時間がつづくことではなく、無時間のことであると理解するなら、現在のなかで生きている者は、永遠に生きている。私たちの生は、私たちの視野に境界がないのと全く同様に、終わりがない。

(『論考』より)


このように、『論考』では生死とその境界について論じられているが、これはまさしく、『φ』第4章の冒頭で引用されている文章なのである。

さらに、第4章で引用された文章の直後には、こんな文章もある。


6.4312 (前略)時間と空間のなかにある生の謎を解くことは、時間と空間の外側にある。(後略)

(『論考』より)


生と死、中と外、境界・・・。


整理しよう。


中=語り得るもの、生

外=語り得ぬもの、死


このように整理できる。


”語り得るもの”は「言語の世界」の「中」であり、

”生”は人生の「中」にある。


”語り得ぬもの”は「言語の世界」の「外」であり、

”死”は人生の「外」にある。


このように、「内と外」が『論考』によって整理された。

言語の世界の外側にあるものについては、語ることができない。


7 語ることができないことについては、沈黙するしかない。

(『論考』より)


この有名な一文は、『φ』エピローグの冒頭にも引かれている。

「語り得ぬもの」を「言語の世界の中」で語ることはできない。


サッカー部しかいない教室に行って、

「バレー部の人、あつまれー!」と言っても、誰も集まらない。

この「バレー部のグループ」は0人である。


”語り得るもの”しかない世界(=世界の内側)で、

「”語り得ぬもの”、あつまれー!」と言っても、誰も集まらない。

この「”語り得ぬもの”のグループ」は0人である。


”生”の世界(=世界の内側)で、

「”死”、あつまれー!」と言っても、誰も集まらない。

この「”死”グループ」は0人である。


”語り得ぬもの”と”死”は、空集合(=φ)である。


では、「φは壊れたね」の意味とは——


空集合(の境界線)が壊れて、”語り得るもの”と”語り得ぬもの”、”生”と”死”の境界があいまいになる


——こう考えられないだろうか。


以上より、『φは壊れたね』の”φ”は「世界の境界線」だと、私は考えるのだ。


◆ここまでのまとめ

ここまでは、「”φ”とは何か?」というテーマで考察をしてきた。

その内容を軽くまとめよう。


●「S&Mシリーズ」では、真賀田四季、「内から外」「生と死」がテーマになっていた

●『φは壊れたね』の”φ”は「世界の境界線」を意味する

●『論考』を踏まえると、「Gシリーズ」(の中の『φ』)はまさに「S&Mシリーズ」のテーマ(「内から外」「生と死」)を引き継いでいると言える



ざっとこんな感じである。

これを踏まえて、次の問に移ろう——すなわち「Gシリーズの"G"とは何か?」である。


【2】またもや核心——「Gシリーズ」の”G”とは何か?


結論、「Fを超える真賀田四季」を意味すると考える。


ここまでの議論を軽く振り返ろう。


●「S&Mシリーズ」では、真賀田四季、「内から外」「生と死」がテーマになっていた

●『φは壊れたね』の”φ”は「世界の境界線」を意味する

●『論考』を踏まえると、「Gシリーズ」(の中の『φ』)はまさに「S&Mシリーズ」のテーマ(「内から外」「生と死」)を引き継いでいると言える


こんな感じであった。

アルファベットを見てみると、「G」は「F」の次にあることがわかる。


A,B,C,D,E,F,G


なので、文字通り、「G」は「Fの次」でなのだ。

だが、それだけにとどまらない。


すべてがFになった、その「次」の世界——


そんなメッセージが読み取れないだろうか?

『すべF』を含む「S&Mシリーズ」では、INSIDERからOUTSIDERへ——内から外へ——と、真賀田四季が移っていった。


0から9までの数字で4ケタの数字を表そうとすると、

0から始まり、9999が最大となる(それより大きい数字は描けない)


これと同じように、16進数の世界では、

0から始まり、FFFFが最大となる(=すべてがFになってる)



——「すべてがFになった世界」の「次」とは、まさしく新世界的なイメージを駆り立てられる。


その証拠に、Gシリーズでは、S&Mシリーズではあまり描かれなかったような近未来的な発想が描かれている。(Gシリーズは、百年シリーズやWシリーズとも密接に繋がっている)


FFFFが最大の世界で、その「次」——外側——に出る。


Gシリーズで描かれているのは、まさに、”世界の外側”に出た真賀田四季が描いた”未来”だったのだ。


◆細かすぎる考察——Fの次


とはいえ、「そんなのお前の推測だろーが!」と思うかもしれない。

そこで、『φ』(Gシリーズ)と『すべF』(S&Mシリーズ)の別の繋がりを、(妄想レベルに)深読みしてみた。


まず、『すべF』以降、何度も使われるモチーフを思い出して欲しい。

数字の「7」である。


「ほら、7だけが孤独でしょう?」真賀田女史が言った。「私の人格の中で、両親を殺す動機を持っているのは、私、真賀田四季だけなの。(中略)私だけが、7なのよ……。それに、BとDもそうね」

(『すべF』p.16)


このように、『すべF』で「7」は「孤独な数字」として描かれ、「7」は真賀田四季を想起させる数字となっている。


では、ここで『φ』の章立てについて見てみよう。


『φ』は、大きな章(第1章、第2章・・・)に分かれており、その各章がさらに小さな区分(1,2・・・)に分かれている。


この、「小さな区分の数が、各章、何区分まであるか」を数えると・・・。


第1章:6
第2章:7
第3章:8
第4章:8
第5章:8


意図的に、6→7→8へと数字が増えている。


ちなみに、6は数学で「完全数」と呼ばれている。

ざっくりいえば、「6」=「完全」みたいなイメージだ。


「6(=完全)」から1ズレた、7・・・

7は孤独な数字・・・


「6」(=完全な存在)から「7」(=孤独な存在=真賀田四季)へ、

そして「8」(=その先の存在)へ——



6→7→8と、まるで階段を登っていくように、

真賀田四季は世界の内側から外側へと駆け抜けていく——。


【3】余談——「わからない」から「わかった」へ

また、『すべF』と『φ』にかけて、印象的な繋がりがある。

「わからない」と「わかった」の対象的な表現だ。


『すべF』(と「S&Mシリーズ」)では、「わからない」という言葉が何度も登場する。


よくわかりません
「そう……、それが、最後の言葉に相応しい」
「最後の言葉?」
「その言葉こそ、人類の墓標に刻まれるべき一言です。神様、よくわかりませんでした……ってね」

(『パン』p.826-827)


一方、『φ』ではどうだろうか?


なるほど、壊れたね、という意味が少しわかった。
わかった気がした。
わかった気がしたい、と思った。

(『φ』p.304)


「わからない」真賀田四季と、「わかった」山吹。

それは天才と凡人を分ける雲泥の差なのかもしれない。



◆『論考』が『φ』の大ヒントに件——余興に代えて


ここまで、「”φ”とは何か?」「”G”とは何か?」という2つの問いを考えてきた。


最後に、余興に変えて、『φ』自体の話をしようと思う。


結論。『φ』のトリックは、『論考』が大ヒントになっている。


『φ』では、「カメラ」という存在が謎の大きな鍵になっている。

ざっくりトリックをネタバレすると、

「犯行現場が撮影されたビデオには、ナイフは映っていなかった。でも”銀色のナイフ”と発言することで、犯行現場にナイフが存在していたと、ビデオを見た人が思い込むように仕向けた」というものだ。


ロケ番組で「さっきのカレー、美味かったっすね〜」との発言があれば、テレビを見た人は、「カットされちゃってる(=映像には映ってない)けど、きっとカレーを食べたんだろうな」と想像する。


これと同じように、犯行現場を写したビデオにはナイフは映っていなかったが、「銀色のナイフ」という発言を残すことで、

ビデオを見た人が「映像には映ってないけど、きっとナイフがあったんだろうな」と想像するように犯人が仕向けた——ざっと、こんなトリックである。


これ、実は、『論考』の文にヒントが隠れている。


「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。


これは『φ』第3章の冒頭に引かれた『論考』の一節だ。

さらに、『論考』にはこんな一節もある。


5.633 世界のなかのどこで、形而上学的な主体に気づくことができるだろうか?その事情は目と視野の関係とまったく同じだと、君は言う。けれども目を君は、実際には見ていない。そして視野にあるどんなものからも、それが目に見られていることは推測されない。


これ、実は『φ』で最初に引用された『論考』の文章である。

この『論考』の文の直前は、こんな一文だ。


5.632 主体は、世界の一部ではない。そうではなく世界の境界である。


これらを『φ』に結びつけると、こんなふうに言い換えられる——


ビデオカメラで撮った映像には、ビデオそのものは映らない。

ビデオカメラは、ビデオに映る部分と映らない部分の境界である。


『φ』では、あたかもビデオカメラ世界の境界の役割を果たしている。

そして、ビデオカメラに映っていない部分(=世界の外側)については、語ることができない。海月及介が真相を断言するのを避けたように、「語ることができないことについては、沈黙するしかない」のだ。


さらに、『φ』では、謎が「解決する」ではなく、「解消する」という表現がされている。


一方、謎が解消するという概念もまた、単なる思い込み、あるいは推論による納得、それとも、最適な解釈による妥協でしかない。

(『φ』p.302)


よく、ミステリでは、「これで解決です!」のように、「解決」というワードが使われる。「解消」というワードは、少し不自然ではないか・・・


・・・実は、この「解消」というワード(概念)も、『論考』に出てくるものなのだ。


6.52 生の問題が解決したことに気づくのは、その問題が消えたことによってである。(後略)

(『論考』より)


このように、『φ』においては、引用された作品(=『論考』)がめちゃめちゃ大ヒントになっているし、作品の世界観を作り上げている。


ちなみに、『論考』は7章まである。

7は孤独な数字・・・。


——とまあ、個人的には、『φ』は森博嗣ミステリの中で、本と引用作品が一番マッチングしている作品だなあ〜と、惚れ惚れしている。。。ほれぼれ。




語ることができないことについては、沈黙するしかない。



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