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言語化と精神科実習。


自分の気持ちを言語化することは、時にしんどい。

心が自分の身体から離れ、可視化できるものになる。

客観視できるものになると、目にせざるを得ないし、向き合わざるを得ないものになる。

それを始めて学んだのは、大学3年生の時の精神病院での看護実習だったと思う。

3週間ほど、精神科単科の病院に行き、実習をした。

看護の実習は、内科や外科、小児科、婦人科、などそれぞれの領域ごとに回っていく。どの領域もレポートがたくさんあって、毎日毎日、たくさんレポートを書かなくてはいけなかった。

それに比べ、精神科の実習は、レポートの量は少なかった。
実際の看護も、他の領域ほどやることがなく患者さんとお話ししたり、散歩したり、ゲームしたりすることも多かった。
独特な実習で、レポートの形も独特だった。

レポートは、患者さんとのある場面にフォーカスして、そのやりとりを逐語的に書いていくものであった。自分の発言や行動に対して、なぜそうしたか、なぜそう思ったか、考えたかを深めていき、それにより、患者さんはどう反応したのかを書いていくものであった。
量的には多くないが、毎日毎日それを繰り返していると、「自分」と向き合わざるを得なくてなかなかしんどい作業であった。自分の心の動き方や言葉や心のクセやこだわりと向き合って、掘り下げていくことが必須だった。心の深いところを探っていくような3週間で途中少し重苦しい感じにもなった。

しかし、言葉を綴り、心を探り、深めていく作業は、苦痛の伴うものでもあったが、色んなことがクッキリ見えてきてスッキリすることも多いものだと学んだ。

それがとても印象的な実習だった。

精神の授業も独特(機会があれば別で書いてみたい)で、4年間を通して上手くカリキュラムが組まれていて、心について深く学べた。看護人生を支えてくれるとても有意義な授業であったと記憶している。

思うことを言葉にしていくことは、自分の気持ちがクッキリと見えてくる作業でもあるから、色んなことがよくわかってくる。

見えないより、見えた方がいいのだろうけれど、その過程は、なかなか辛いものであることもある。
皮肉だけど、見えない過去の方が良かったんじゃないかと時折思ってしまうこともある。

しかし、言語化していく過程を経て、見える景色は、今まで見ていたものとは違うものであると知っているから、言語化していくことはやめられない。

途中、本当に逃げ出したいぞ、と思うくらい辛くてしんどい時もある。

きっとそういう時は、すごく踏ん張る時なのだと思う。

そして、深く根を張る時なのだと思う。

自分を癒し、自分を育てていくことは、自分がきちんと責任をもって行うことなのだと思う。

そういうチャンスに恵まれた、ということ。

とてもいいチャンス。

その過程を経たら、見える景色は変わる。

そのチャンスをしっかりものにする。

よかった。
と、思えるように、自分育てをちゃんと行っていきたいと思っている。


読んでくださり、ありがとうございました。

そら


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