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感情は本当にあなたでしょうか?

どのように本質のことをご説明しても
感情が自分だと信じられている以上
何も届きません。


感情は、条件によって反応します。
条件は好き嫌いとして現れます。

感情は簡単に言えば好き嫌いであり条件です。


過去に、こんな方がいらっしゃいました。


そらさん、先日おじいちゃんが105歳で亡くなったのです。
「万歳!大往生だ!」と拍手で送ることができました。

今夜ぐらいが山だよ。そう医師に言われて家族一同が
病室でおじいちゃんを見守りました。
そんな中で穏やかにおじいちゃんは亡くなりました。

その方は、沖縄の方で沖縄は一族の結束が強いので
たくさんの一族全員で見送ることができたそうです。


そんな話をされたとき


私は、質問を投げかけました。

「こんなことはあり得ないでしょうが
もし、沖縄は停電することが多くその停電のせいで
おじいちゃんに繋がっていた機会が止まりそれがきっかけに亡くなったら
あなたは、「万歳!大往生だ!」と拍手で送ることができましたか?

その問いに彼女は、「きっと泣くでしょう…」と答えました。


おじいちゃんは充分に長生きで大往生です。
機械が止まったからといって苦しんでもいません。

なのになぜ…彼女は泣くのでしょう。

なぜ「万歳!大往生だ!」と笑うのでしょう。


これは、感情に意味がないという話ではなくて

単純に感情は条件に影響を大きく受けます。
好き嫌いにも大きく影響を受けます。

とするならば、その泣いている彼女の奥底に何があるのか…
笑っている彼女の奥底に…何があるのか…

それを見ようとして何かを見つけることができるでしょうか。

さらには、条件によって反応しているということは
その人が何かの正しさ(信念・前提にしているもの)を持っていて
そこに当てはまったかどうか…ということで反応しているということ。

だとするならば、確かにその《正しさ・信念・基準》という価値観は見えてきます。

ですが、それも…残念ながら
あなたではありません。

ただの価値観です。


それは、あなたではないだけでなく
そこにはほとんどと言っていいほどに
本質は関わっていません。


様々なワークや考え方・学問は
感情をその人だとして成り立っています。
行動もその人の何かが現れているとしています。

ですが、私がその人の本質を観るときに
言葉も感情も行動もあてにしません。

その人がそれを選んでいるということは
その人の狭い環境の中で
それしか選択するものがなかった…という条件でしかありませんから。


愛と言われるものと
感情というものは別だ。


これはたぶん…ほとんどの人が認識しているはずです。

子供が池で溺れているときに
子供が好きかどうかとかその子のことが好きかどうか…など
関係なく助けようとするはずですから。

なのに、すべてと言っても良いほどの考え方やワークは
感情に向き合います。

愛と感情は…全く別だというのに。


そら:山本博

私について
https://note.com/sora_ni/n/n773d4f893f4d

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