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時代

時に人は
なにもなさないまま
この世界を去る者も多く
そこに罪も功績もない
繰り返し繰り返し
命の循環の中に生まれ来ては去っていく

はて?
私はなにかこの時代のお役に立てることをしたのだろうか?
時代の中に存在できているだろうか?


また、答えのないぐるぐるの中に入る

生きることで
続いていくなにかを知るまでは
なにも選べないし存在もできないのかもしれない

誰の記憶にも残らない私
きっとそう
私は子供時代の同級生の名前が記憶に無い
小学校も中学校も無い
高校は行ってたけど夜学で田舎ヤンキーのたまり場ですぐ辞めた
同窓会に呼ばれた事もなければ、誰かの冠婚葬祭の話も連絡等なにも来るわけもない
誰も私の居場所を知らない

今私を知ってるのは
末娘の学校の関係者と世話になってる役所の人だけ…
SNS上の友達で私の本名を知ってる人は居ない
そらさんのことは知ってるけど
本名の私のことは誰も知らない
というかやっぱり本名を"そら"に変える方がいいと思うんだよね…
誰も私の本名知らないもの…

悲しくはないけど寂しくはある
と言うだけ


2021年5月31日23時52分下書き保存

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追記(2021/11/21 02:40:23)

過去の下書きを探検してたらこんなのを見つけた
何を語っとるのか思ったら
つい先日ゼロの紙さんが書いてたのと同じような内容だった。
これも誰もが通る身なのか?なんて思ったりして

みんな 
表現する事や 居場所や在り方を探りながら生きてる
どんなに有名な科学者も俳優も歌手だって
立場や立ち位置は違っても人は人として生きてる限り何かしら感じて不安になりながら生きてる

養老孟司先生が言っていた
不安とは見えていないはっきりしない物をいう
分かったら恐怖になるみたいな…
この動画なんだけど私の言葉は端折り過ぎてるからこの動画見てくださいな。

物事って見る角度が変わるとこんなにも違うものなのか?ってハッとさせられる事が多くて
それはこんなふうに有名な養老孟司先生のような人の話ばかりではなく
誰かの書いたnoteの1行の時もあるし
歌の歌詞や芝居のセリフだったりする
それこそ子供たちと話してて、ひょんなことから知ることもある
知ろうとするかしないかその違いだけなんだと思う
逃げようと思えばいくらでも逃げられる
自分から向かい合わなきゃ気付けないこと
だから、私は人様のコメント欄に平気で自分の意見を書くし嫌われもする。
そんなものは恐怖でも不安でもなくて私はこう感じたんだよね…みたいなそれだけの事なんだけど何故か私は直ぐに怖がられる
きっとこの養老孟司先生の言ってる不安と恐怖の話そのものなんだろうなって何となく思う


世の中、私みたいな物言いでクレーマーみたいなのが溢れてるから怖がられても仕方ないんだけれど、それはちょっとどうなのかと思う。
そんな環境下に生活していたらそうなってしまうのだろうけれど。その方が強い印象があって多数決の理論なんかもそれに近いのかもしれないからね…
私はクレーマーなのではなく感じたこと思ったことを伝えてるだけ
それ以上でもそれ以下でもないです。

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