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「0」と「1」とで「神」を表現
人類史において最初に文字を使用されたのは、今から約5000年前(一般的広く採用されている学説をもとにした情報です)のシュメール文明であることになっています。
人類は最初に何を書いたのでしょうか!?
恋文なのか、次世代へ残す遺言なのか、恩師や親への感謝の思いなのか・・・
それらのロマンチックな推測とは裏腹に、「商取引」を記録するために用いられていたことが分かりました。
人類にとって、物を計算するということは、ても重要だだったということがうかがい知れます。
そこで、物を数える、計算するという行為を文字に書き起こして演算することで文字が発達し、人間の文明は発展していきました。
ウィキによれば、『「計算」とは、与えられた情報をもとに、命題に従って演繹することです。
これは人間が無意識のレベルで行っている判断(→判断力)や、動物一般が行っている思考を、計算という形で意識化する手法ともいえ、その意味では「ものを考えること」一般が「計算」の一種だとみなすことも可能です。』
より効率よく人間の意図を具現化するために計算が生まれた
人間の欲求は生存する、幸せになるということに集約できます。
「生存/幸せ」ということは抽象的で人によってまちまちですが、この要素はざっくりいうと、
・経済・人間関係・健康・生きがい などのカテゴリーに分けられることが出来ます。
それぞれのカテゴリーを満たすために思考、つまり計算して人間は一生を過ごすといえます。
計算するときに必要なものは何でしょうか!?
そこでは「数」が必要になります。
0はそれ以外の全ての存在
「万物は数である」といったのは古代ギリシャのピュタゴラスです。
数とは、何か人間に意図があり、思考する際に、物を数えたり、計算するのに便利が概念です。
例えば、🐶 🐶 🐶 🐶 という状況があり
犬は何匹いるでしょうか?という問題があったとき、
1.🐶 2.🐶 3.🐶 4.🐶 =犬が4匹いる、と数えます。
では次の問題として、🐶 🐱 🐶 🐶 🐱 🐴 🐶 🐶
という猫や馬も一緒にいるような状況があったときに犬は何匹いるでしょうか?という問題にいては、
1.🐶 0.🐱 2.🐶 3.🐶 0.🐱 0.🐴 4.🐶 5.🐶
=🐶が5匹います、ということが正解になります。
当然ですが、犬🐶以外の猫🐱や馬🐴は、数に数えません。
この場合の猫や馬は数えないので「0」と表記します。当たり前ですが、仮に犬を数える状況で、他に兎🐇や蛇🐍、林檎🍎、ミカン🍊、花🌸といったものがあったしてもそれらは犬🐶として数えません。
つまりこの場合の「0」は、犬🐶以外の全ての存在です。
すべての存在と言えば、犬🐶以外の、心の中の情報区間も含めた全ての宇宙の存在です。
この場合の自然数とは何か!?
ではこの場合の自然数とは何でしょうか?このことを考える前に、さっきの犬🐶を数える例を前提にしたいと思います。
この例で言えば、犬とは何でしょうか?
犬🐶とは「4本足で、尻尾があり、ワンと鳴く」という条件だけでは定義不能です。
例えば事故や障害で3本足の状態の犬🐶はもう犬🐶ではないのでしょうか?
尻尾がない状態はもう犬🐶ではないのでしょうか?
4歩足で、尻尾があり、ワンと鳴く「猫🐱」も声帯に特殊な変化がある猫🐱がいるとすればそれはもう犬🐶なのでしょうか?
では犬🐶の条件をもっと詳細に描けば問題ないのか、と言えばそれはそれで問題が起こりそうです。
実物のものを犬🐶と呼ぶのか、漫画やイラストなどの記号も犬🐶と呼ぶのか、ロボットのアイボを犬🐶と呼べるのか、今後地球外の生命体と交流するときに、その惑星で外見上きわめて犬🐶に酷似している生き物を、そのまま犬🐶と認定してよいのか…
考えれば考える程きりがありません。
要するに、物事の定義は完璧には遂行は不可能であり、
このことから言えるのは、すべての条件と定義を満たした完璧な「犬」という存在はありえない、と考えることが出来ます。
私達人間は、計算をしやすいように、「仮」に犬というものを仮定義して思考(計算)を行っているということです。
では冒頭の問題に戻ると、
犬🐶という存在は、厳密にいえばその場の仮の定義にすぎない存在であり、その状況の定義に合わせて犬を数えているということです。
状況と言えば、例えば「ドッグランに参加可能な犬が必要なので、足が速い犬を数えている」という状況だとします。
その時に、足が悪かったり、怪我をしている犬はカウントされません。
このように「数を数える」ということは、背景にある状況が決めます。
その状況はその時だけのものであり、次の瞬間、仮に「写真撮影に必要だから、あまり動かない犬がよい」という状況であれば、カウントされる犬はまた異なります。
状況によっては、さっきまで実数の数字(1.2.3.4.5....)という数が数えられていたのに、
次の状況になると、「0」とカウントされます。
つまり、「1」とカウントされたいたものも、次の瞬間には「0」とカウントされてしまうというとても曖昧なものです。
言い変えると、この宇宙の全ての事象は、「0」か「1」というように表記されます。
そして、その定義が有効な条件下で、用途に合わせて1.2.3.4.5.と数を数えて計算が出来ます。
潜在的には、すべての事象は「0」という「無」であり、「1」という「実体」でもあると言い変えることが出来ます。
この世は、「0」と「1」が表現している舞台であり「場」です。
状況が定義を決める
何か意図があって、思考が発動します。思考が発動するということは言い変えると計算がなされるということになります。
計算がなされるということは、あらかじめ「意図」の中に設定されていた「対象を数えること(犬が必要なら犬を数えるなど)」が必要になり、
この「無」である「0」の世界から「1」が表出されます。
このように、状況(意図)が定義(何を1と数えるか)を決めます。
このことは、有名な物理学の実験である「2重スリット実験」と重なる部分があり、面白いです。
つまり、認識主体(生命)が思考を向けると、波動状態であった「場(0)」に「粒子(1)」が出現するという実験結果です。
そして完全な定義や状況というものは存在しません。
つまり、
ここで言う自然数は仮に定義した概念であり、架空、虚構なものとも言えます。
計算とは、冒頭に記したように、動物や人間が無意識に行っている思考を意識化したものと言えます。
そして、計算には自然数が必要です。
しかし自然数は刻々と変化する状況に合わせて「仮」に設定した概念でり、「実体」はありません。
その実態のない「数」と足したり引いたり、掛け合わせたり、割ったりと計算する過程が思考です。
だから思考は実態については全く触れることが出来ません。
なぜなら思考を構成している最小単位である「自然数」がもともと虚構で出来ているからです。
虚構という「仮」に作られたものを足し合わせて計算しても、実体験や実際そのものを示しているわけではありません。
「空」 般若心経から
般若心経にある教えの中に「色即是空」や「受想行識 亦復如是」という一説があります。
それらは、「この世のものすべてには実体がなく、同時に、その実体のないものが縁によって、私たちの目に見える存在になっている」という意味です。
目に見える物質や現象、精神作用は刻々と変化します。そこに存在があるように見えて、次ぎの瞬間には変わってしまうような存在であるからこそ、空であるとしたのです。
マインドフルネス瞑想やヴィッパサナ、マントラ瞑想では無を体感する
「0」とはこのように「無」と考えることが出来ます。
無は、宇宙の存在するすべての事象のことであり、思考ではありません。
条件をもって存在していない、宇宙の事象のあらゆるものなので、
体感としては静寂、至福、安らぎ、愛、といった伝統宗教の本質的な体験が得られます。
色んなやり方や方法がありますが、様々な瞑想の目的が、この「無」を体感することです。そして、「無」から出発し、何かを始めることを訓練として行います。
そして、無から仮に出現した「1」を組み合わせて、様々な創造物を表現します。
また、「1」は架空の定義上の存在であり、諸行無常でいずれ「0」という無限の至福の中に溶けていきます。
この世は永遠に続く「0」だけでもなければ、架空の「1」で構成される幻想だけでもありません。
その両方を兼ねた「空」であるということです。
「0」と「1」と「神」
無限の「0」という場は、白い「紙」のようなものです。
そして、何か意図があると、その紙に「点」が描かれ、「点」が集まって線になり、「1」という文字を創ります。
その様々な線が「0」という「紙」の上に文字を書き、文章を書き、物語やイラスト、絵、絵画、漫画を描いていきます。
どんなに「0」という紙に絵や記号、文字、文章を書いても、相対的に見て、「紙」は「紙」です。
「白紙の紙」と「様々な色形の文字や絵」を合わせても紙面の中であり、それらは総じて「紙」の一部です。
この「紙」と「神」を入れ替えても、成り立ちます。
計算という神
宇宙は星を創り、動物を誕生させ、人間にまで進化させました。
「人間」という筆記用具を使って、「0」という紙面に様々な物語と創造物を創っているとも言えます。
そして、その筆記用具自体がAIとの融合や競合によって、さらにアップグレードを続けています。
「0」という紙面にどんな物語と創造物を描いていくのでしょうか。
破滅でしょうか、これまでと同じ主従関係を強化する支配型のシステムでしょうか!?
それとも、あまりこれまで描かれていなかったそれぞれの存在を認め、大切にし、全体としての大きな生命として存在する、かつてない世界でしょうか!?
前者の世界感はもう飽きた人が多いのではないでしょうか。
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