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丁寧な暮らしとかいう不気味の谷

SNSの普及とともに確実に市場を拡大させているもの、それは丁寧な暮らしという概念である。

「丁寧な暮らし」この言葉から連想されるものはなんだろう。

「憧れ」とか「幸せ」などであろうか。
おそらく多くの人の口からはそんな感じの答えが出るのであろう。

だが、私が丁寧な暮らしを見て感じることは、怪異にでも出くわしてしまったかのような一種の不気味さなのである。



綺麗に片付いた部屋には、有名ブランドのこだわりの北欧家具が並んでいる。

お気に入りの絵画やインテリア雑貨、季節物の飾り付けにも抜かりはない。

毎日掃除は欠かさず、お風呂掃除もトイレ掃除もサボることはない。

洗剤や調味料はおしゃれなボトルに詰め替え、リモコンやティッシュボックスにはケースを被せて徹底的に生活感を排除する。

キッチンは最新式で食洗機なんかも完備だ。
食材はオーガニック専門のスーパーまで買いに行っている。
お米は土鍋で炊き、毎食しっかりと名前のついた料理を拵え、1皿数万円はくだらない作家もののお皿に盛り付ける。そして色鮮やかなソースをぶちまける。

天然繊維の服で身を包み、毎日違うコーディネートをして、部屋着も有名ブランドの可愛いやつだ。

化粧品は肌に優しいオーガニック。シャンプーはサロン専売品の物を使っている。週に一回のご褒美としてボディスクラブとちょっとお高めのパックで特別なケアをする。

風呂上がりはキャンドルに火をつけ、お香を焚き、もしくはルームフレグランスを振り撒いてお気に入りの香りに癒される。

ベッドは余裕を持ってちょっと大きいサイズにした。寝具はもちろんインスタでよく見るあのマットレスだ。クッションをたくさん並べてホテルライクな感じを演出している。

ストレッチや読書をしてリラックスした後、気分よく眠りに落ちる。
朝は毎日決まった時間に起きて、カーテンを開けて朝日を取り込みながらベッドメイクをし、白湯を飲んで体を温める。

そうしてまた私の丁寧な1日が始まる…



そんな生活を見ていると思ってしまう。

正直に言おう、そんなものに一ミリも惹かれることはないと。

「丁寧な生活」それは全くもって不実であり虚構でありそこには、不自由という名の鎖が雁字搦めに巻きついているようにしか見えないのだ。



人間が人間そっくりのロボットを潜在的に嫌悪してしまう心理現象を「不気味の谷」と呼ぶ。

私たちは、ロボットの見た目が基本的に人間に近づくほど好感度が上がっていくが、本物に限りなく近づいたある一点において急激に好感度が激減する。そして本物と完全に見分けがつかなくなったとき、再び好感度は急上昇する。このように好感度の曲線がある一点において深い谷型になっていることから「不気味の谷」と名付けられた。

あなたも経験があるだろう、本物に限りなく近づいた人間そっくりのアンドロイドをどこか不気味に感じた経験が。

本物に限りなく近いが本物ではないという歪みを私たちは不気味に感じてしまう。

だから私たちは、ルンバをペットのように可愛がることはできるが、人型ロボットのペッパー君はあまり可愛いと感じない。(人間と完璧に見分けがつかないアンドロイドを作れるまでに技術が進歩したら別だか。)

丁寧な暮らしへの揶揄したような態度はこの不気味の谷という現象によく似ている。

まるで模範解答のようなその生活は、人間に限りなく近いアンドロイドのようであり、どうしようもなく人間臭い生活をしている私たちのどうしようもない潜在意識にどうしようもなく不安を与える。

そのお手本のような生活には、怠惰という醜い欲望が欠けている。だから本物の人間ではなく、人間に限りなく近い何かのように見えてしまう。
まるで私たちが潜在的に嫌悪する、不気味の谷に落ちてしまったかのように。

まあ簡単にいうと、丁寧な暮らしには人間っぽさが足りないのだ。

あなたはそんな野蛮な暮らしをしている奴らと一緒に暮らすのはゴメンだと断るだろうがこっちからも願い下げであると言っておこう。


この世界には、私たちを本当に心から救ってくれるものは何一つなく、丁寧な暮らしもその例に漏れることはない。

丁寧な暮らしをすれば幸せになれるなどという御伽話のような空想に縋るよりも、もっと現実的な痛みを噛み締める方がまだ救いとなり得るだろう。

朝はギリギリまで寝て、朝ごはんを食べる時間はなく、寝癖が残ったまま電車に飛び乗り、満員電車にイライラして、午前中はコーヒーで眠気を覚ましながら仕事をして、昼は茶色い弁当で胃袋を満たし、午後もコーヒーで眠気を覚ましながらなんとか仕事をして、ちょっと残業なんかもしないといけなくて、帰ってきたら唐揚げをビールで流し込んで、気の済むままテレビでもYouTubeでもインスタでもTikTokでも見て、やることやって、泥のように眠る。

休日は二度寝をして惰眠を貪り、週末の自分に託した溜まっている掃除洗濯にはやっぱり手がつかず、自炊ができないというよりも面倒臭いのでやっぱり外食やコンビニの弁当で済ませて、生産性のあることなんてできるはずもなく、夜はやることやって寝る。

現実とはそんなもんで、これが日常である。

非日常のキラキラした生活も一度手に入れてしまえば、徐々にその輝きは失われていき、決して満足することはないし、結局何も残りはしない。

そう自分を納得させながら、ただの日常を受け入れた方が、まだ気持ちが楽になるというものだ。


これからも世の中の謎の勢力は、私たちに丁寧な暮らしを送るように働きかけてくるだろう。

でもわかる、丁寧な暮らしは金になる。今はどんなことでも仕事になり得る。
全てのビジネスの本質は人々に物を売ってお金をもらうことであり、そのためには本当は不要な物であっても必要なものに見せかけ、商品を売りつけるという行為も辞さない。非情な行為だと批判する人もいるだろうが、私を含め仕事をしている人のほぼ全ての人が自覚のあるなしにやっていることだ。

丁寧な暮らしを発信し、私のように暮らせば幸せですよと、信者を洗脳する。「お気に入りの〜」などという題で自分の持ち物や家具なんかを自慢し、製品やブランドの良さをこれ見よがしに語る。そうして信者に物を売りつける。

簡単に言えば、家族の絆とか幸せが描かれているマイホームや車のCMと同じようなものである。

丁寧な暮らしとかミニマリストとかシンプルライフとかその辺の発信者はそのビジネスモデル上、何かを買う時、みんなに自慢できる物を選ばなくてはならないだろう。本当は安価なもので十分であっても。

そしてちょっと背伸びして買ったものは、傷つくのが嫌だからと使うのを拒んだり、扱いが過剰に丁寧になって自らの足枷を増やしていく。

本当に自由じゃない。

そんなものは全くもって羨ましいとは思わない。

汚れや傷がつくのが怖くて使えないブランド物よりも、汚れてもなんとも思わないユニクロの方が好みである。
天然繊維のちょっと洗濯に気をつけないといけない物よりも、ポリエステルの方が好みである。

そもそも数万円もする作家もののお皿に綺麗に盛り付け、おしゃれに写真を撮ったところで飯が上手くなるわけもない。鍋から直接飯を食うだけだ。

一般的には低俗なものであっても、それを良しとする心意気こそ、器量であり自由だと私は思う。


さて、丁寧な暮らしを一通りディスってみたが、こんなものは一個人のただの戯言なので深く気に留める必要はない。

ほとんどの人にとって、何もかもが満たされているようなその生活は、幸せの象徴であり、まさに模範解答であることは間違いのない事実なのだ。

丁寧な生活を実践すれば、日本国憲法 第25条 第1項が示す「健康で文化的な最低限度の生活」などという曖昧な基準を確実に満たし、日本国民として立派な行いだと讃えられるだろう。

だが、完璧すぎるものはいつの時代も、完璧ではないものに嫌悪される。

私はどちらの主張もその人にとっては正しいのだと思っている。
正義などという概念も結局は一個人の感想にすぎず、年齢や立場、時代によって簡単に変わってしまうものだ。

だから丁寧な暮らしの信者もぞんざいな暮らしの信者も自分の好きなように生きたらよろしい。

ただ丁寧な暮らしをする必要のない人間まで、SNSやCMに踊らされ、丁寧な暮らしをしようとしているのはいただけない。

それは自由ではない。

極論どんな生活を送ろうと、生きていくという事実といつかは終わるという結論に変わりはない。 

丁寧な生活をするのもよろしい。

丁寧な生活に疲れたら、もっと気の赴くまま本能に何もかも委ねて自由に生きてみるのもよろしい。

そして落ちるところまで落ちてしまったとしても、このクソみたいな生活をどうしようもなく恨みながら、どうしようもなく受け入れ、どうしようもなく愛していけばよろしい。


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