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「車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ)を読んで②

私自身、ハイルナーとハンス、どちらのタイプかと聞かれれば、これはもう間違いなくハンスなのである。ハイルナーのような天才的ひらめきとか、学校への反抗的態度とか、私には絶対的に欠けている要素だ。勿論、反発を覚えることも多々あった(特に中学生の頃)が、ここでそれを態度に表したら、受験に不利になると考え、ぐっと堪える、そんなタイプなのだ。
 
ハンスも最後まで学校や教師に逆らうことはなかった。彼には反抗心すら起こらなかった。だが無意識のうちに抑え込んでいたのだろう。そのためか、彼は精神を病んでしまった。
 
私の個人的な意見としては、神学校を実質的に退学になったハンスにも挽回のチャンスを与えてほしかった。ハンスは、ヘブライ語やギリシャ語は得意だったし、古典の理解も深かった。彼なら、創作は無理でも、古典文学者や文献研究者なら十分になれる才能はあったと思うのだ。
 
だが、ヘッセに言わせれば、それではダメなのである。彼がまだ無名でいろんな職を転々としていたころ、「詩人にならなければ、何者にもなりたくない」と口にしていたと言う。彼は、最初からハンス(秀才)ではなく、ハイルナー(詩人)としてしか生きるつもりはなかった。
 
そして何より、国家が作り出した学校という制度、無論それを取り巻く社会や家庭環境を含め、大きな車輪に押しつぶされてしまったハンス、つまり社会に従順だった自分の分身を描きたかったのだろう。
 
ヘッセは、本作で、幾度となく学校の目的、教師の役割について書いている。私が解釈したところではこうだ。
 
学校の目的は、入学してきた子供たちの野性を矯正し、なべて従順にし、学業を授けて、社会に役立つ人間を世に送り出すことである。教師の使命は、教師を軽蔑したり、体制に反発したりする人物ではなく、社会に適応して真面目に働く実直な人間を作ることであり、教師は、初めのうち暴れ狂っていた野性を完全に手なずけ、卒業する頃には、規則や命令に従順に従う教え子の姿を目にするのを最大の喜びとしている。
 
なんだか、水族館で調教されて、立派な芸を披露するオットセイやイルカを思い浮かべてしまった。
 
それにしても、である。ここまで痛烈に批判されているというのに、学校は、「車輪の下」を推薦図書に指定したりしている。これは、どういうことだろうか? それについても、ヘッセは述べている。学校は、自分たちが追い出した生徒、自ら逃げ出した学生が後に有名になり、重要人物になれば、それを自分たちの手柄とし、誇らしげにその名を掲げると。
 
ヘッセ自身も、半年で逃げ出しはしたが、母校「マウルブロン神学校」を世界的に有名にした。真面目に実直に卒業した者は誰も叶えなかったというのに。なんと言っても、ノーベル賞受賞作家の名を口にするのは、抗いがたく、心地よい響きがあるのだろう。
 
そして、母校の神学校だけではなく、遠く離れた日本にもその名声は有効であり、我が国の青少年に推奨する価値ある作品となったのではなかろうか、と推察する。勿論、名声だけではないだろう。反省や自戒を含め、学校の在り方を模索する意図もあったのかもしれない(かな?)。しかし、もしヘッセが無名な作家だったら、取り上げられることはなかっただろう。
 
ヘッセが指摘する学校の目的、教師の使命説に私も同感ではあるが、では具体的にどうすればいいのかというと解決は難題である。生徒一人一人に合った教育をするとなると、人材も費用も無限に必要となる。
 
一人一人が違う教育を受けるのなら、集団で学ぶ必要もないだろう。いっそのこと学校という制度をやめて、各家庭でAIによるオーダーメードの教育を受けるなんてことも将来あるのかもしれない。
 
私自身は、ヘッセとは別の視点から、学校制度に限界を感じているが、それについては後日に譲りたいと思う。
 
最後になるが、返す返すも、ハンスには生きていてほしかった。まだ十代の半ばで、将来何をしたい、何になりたいなんてわかるはずないのだ。受験前に一旦決めてしまった進路も、時間の経過や状況によって変えたくなることだってあるだろう。もうこのままではやっていけないと思い詰めたときに、軌道修正したり、いったん全部白紙にして考え直したりすることができる、そういう変化に柔軟な社会になればと切に願う。
 
いやあ、高校時代とは違って、シニアになってから書く感想文は、やっぱり、親目線になりますな(*^^)。


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