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そこに自由はあるのか①

ドイツでは自由を求めてよくデモが行われる。新しいところでは、コロナ禍で政府が打ち出した外出禁止令、マスク着用義務、ワクチン接種要請に対する抗議活動の一環としてデモが催された。そこではナチ政権に敢然と抗議したゾフィー・ショル(これは運命なのか①)の名前も掲げられたという。(驚いたことに、一連のコロナ対策は、ナチス時代のユダヤ人迫害に例えられていた)
 
ドイツだけではない、フランスをはじめ欧州諸国、アメリカでもそうだ。古くは、王政や植民地という制度からの自由、奴隷という身分からの自由、差別や不当な待遇、或いは個人的に感じる様々な制約からの解放等々、あらゆる自由を求め、人々は戦って来た。

フランスは、革命を起こし、王政を倒した。アメリカは、戦いの末、イギリスからの独立を勝ち取った。それを祝って、フランスはアメリカに巨大な自由の女神像を送った。その像は、今でもアメリカに自由の象徴として、独立宣言書を左手に抱え、右手に松明を掲げ誇らしげに立っている。
 
自由の女神は、フランス革命のアイコンであった。ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」に描かれる、民衆の先頭で革命旗を掲げ、死体の山を越えていく女性の雄姿が、自由の女神のモデルである。

「自由を与えよ、然らずんば死を与えよ」は、アメリカ独立運動のスローガンだ。わたし語に翻訳すれば、「自由じゃなかったら、死んだ方がマシ!」であろうか。自由とは命をも凌駕する価値があったのである。
 
だが、「それに比べて日本は・・・」と嘆く気持ちは、正直なところあまりない。確かに、ドラクロワの絵を見れば心躍り、血が沸き立つ思いもするが、「自由」という言葉に心がほとんど動かないのだ。これはどうしたことだろうか? あらゆる制約から自由を求めてデモに繰り出す人々から見たら、私はさぞかし情けない人間に映るのではなかろうか。
 
実は、私は日常のあらゆる場面で痛いほど不自由を感じている。私を拘束している第1のもの、それは仕事だ。私の一日の大半は仕事に費やされる。のんびりと好きな仕事をして過ごせるならまだいい。だが、技術文書というお堅い内容にあまり興味も沸かず、常に迫りくる納期に向けて追い立てられている。

カレンダーと仕事の進捗状況を照らし合わせながら、こりゃヤバい!急がなきゃと焦ってパソコンに向っているときに限って、急な便意が襲ってくる。もちっと進んでから、もうちょっと、もうちょっとと、私はギリギリまで粘るが、とうとう根負けし、進んだところに印をつけて、トイレに駆け込む。
 
さてトイレから戻り、安心して仕事を再開するが、しばらくすると今度は空腹で腹が鳴り出す。さあ昼は何を食べようか。それはそうと今日の夕飯は何にしよう、買い物に行かなければ、あれもなかった、これも切れてた、買い物ついでに支払いも済ませなければ・・・。

仕事や家事にまつわること以外に、家族の一人一人の様子をうかがい、対応していかなければならない。ちょっと様子がおかしいと思っても忙しいからと放置すると後でとんでもないしっぺ返しがやって来る。そんな合間を縫って趣味のドイツ語の勉強も少しずつ続けなければならない。そうしないと、今のレベルすら維持できない。
 
子供の頃、正月の特別番組でよく皿回しの芸を目にした。芸人は、台から垂直に立てられた何本もの細長い棒の1つで平たい皿を回す。それを1つ、また1つと増やしていく。1つを回していると、最初に回していた棒が止まりかかって皿が落っこちそうになる。その棒を回しに行くと、別の皿が落っこちそうになり、またそれを回しに行く、という具合に、全ての皿が落ちないように奔走するという芸だ。

私は、仕事やら家事やら家族のケアやら趣味やら、そしてもちろん自分自身の心身のケアに追われて暮らす生活が、あの皿回しそっくりに見えてしかたない。
 
こんな暮らしのどこに自由があるのだろうか。某消費者金融会社のCMではないが、「そこに自由はあるんか?」と問いたくもなるのである。
 
続く・・・

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