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朝日新聞記者として最後の記事

会社を辞めると決めて、だけど会社に籍が残ったままの日々が1カ月過ぎた(7月までは形的には朝日新聞東京本社社会部記者です)。この間、子どもの進入学、学区内での転居などバタバタしてあっという間に最後の投稿から1カ月が過ぎた。

そして、なぜか立て続けに、今日5月8日付で朝刊と夕刊に私が書いた記事が紙面に掲載された。一つは、大阪本社版の社会面では3月25日付で掲載済みの記事。

大岡昇平原作の映画「野火」などで知られる、映画監督であり、俳優やナレーターとしても活躍されている塚本晋也さんへのインタビュー記事。「野火」は、戦争の理不尽と残忍さを真っ正面から描いた秀逸な映像作品です。ぜひ多くの方に見て頂きたい。

そして、4月6日付の広島版(地域面)に書いた記事を大幅に書き直して書いた、被爆者であり元毎日新聞記者であるジャーナリストの関千枝子さんの惜別記事が、今日5月8日付夕刊の「惜別」欄に掲載された。

広島版の片隅に書いた小さな記事を、「惜別」欄担当の方が目にとめて下さり、今回、夕刊で書く機会を得た。「私」の思いをもっと前面に出していいですよ、というアドバイスを受け、この場所で綴ったこともふくも含めて、新聞記者の大先輩、関千枝子さんに対する思いを書いた。

結構あれこれ書いていた記者だが、4月に入ってから、所属だけ東京社会部になって、でも生活は広島にあって、という生活をしながら、1カ月も記事を一本も原稿を書いていない、という初めての経験をした。

でも、子どものことなどで目が回るような日々を過ごしており、この場所で書く余裕すらなかった。

今日の朝刊や夕刊の記事を見て、いろんな方から連絡があった。特にうれしかったのが、近所の立ち飲み屋で出会った某大手企業の転勤族の方からのメール。「記者を辞められたかと思ったら最後にすばらしい記事書かれていますね」と。この方については、自分が広島版で2018年1月から連載してきたコラム「なにしょーるん」で書かせて頂いたこともあり、行きずりの方との出会いの尊さをかみしめていたところ。

広島平和記念資料館(原爆資料館)の展示入れ替えの取材でお世話になった、東京在住のご遺族からも、関千枝子さんの惜別記事を読んだとさっそく連絡があった。資料館本館に入ってすぐ、動員学徒らの遺品が並べられた一画に、入試の受付番号票や学徒隊章、手書きの時間割表などが展示されている、旧広島二中(現広島県立広島観音高校)の興津正和さんのご遺族。「ご自分が病欠して助かったことにどれほど、つらい、悔しい思いをなさったことでしょう。兄は8年生まれでしたから生きていれば、今年は88歳です。関さんが生きていらして、原爆の悲惨さをジャーナリストとして生涯伝え続けてくださった事に心から感謝申し上げるとともにご冥福をお祈りいたしております。あちらで懐かしい人達にお会いになられる事でしょう。私の家でも靖国神社に英霊としてまつることは反対でした」

興津正和君、私はいまも、かいわいをジョギングする度に、あったこともないあなたの名前が刻まれた慰霊碑前で手を合わせています。大新聞社を離れるわたしはもはや無力ですが、みなさんのことを日々頭に入れながら、何か自分にできることはないだろうか、すべきことはないだろうかを考えることをやめずにいたい。

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興津君、生きていれば88歳で、関さんと同じだったんだな。

広島二中のみならず、男の子や女の子の名前がびっしりと刻まれた慰霊碑は、広島のあちこちにある。その一人ひとりの名前を、時間を見つけて眺めている。関さんの惜別記事にも書いたが、一人ひとりの人間の尊厳が尊重される社会に近づくため、私は自分ができることを探してやっていきたいという気持ちを新たにした1日だった。

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