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G.K.チェスタトン『ブラウン神父の童心』


いわずとしれたシャーロック・ホームズ、「灰色の脳細胞」を駆使するエルギュール・ポアロ、強靭な論理で難事件を解決する、エラリー・クイーン、「密室講義」で名高いギデオン・フェル博士などなど、推理小説の黄金時代を彩った数々の名探偵のなかにあって、ひときわユニークな輝きを放っているのが、一見冴えない風貌をもったブラウン神父です。『ブラウン神父の童心』はシリーズ最初の短編集で1911年に刊行されました。

ところで、黄昏時は逢魔が時といわれます。常識が支配する昼間の世界から魔が跋扈する夜の世界へ取り残されたとき、人はただおびえるばかり。時が過ぎて頭上に星がきらめいても、その無限の広がりの中では冷静で正常な理性を保つことなどおよそ不可能に思われます。
しかし、と本書の主人公である、ブラウン神父は語ります。「理性と正義心は、もっともかけ離れた、もっとも孤独な星さえもとらえる。(「青い十字架」より)

英国人であるチェスタトンが「逢魔が時」のことを知っていたとは思えませんが、黄昏~夜の世界が人の心にもたらす不安や恐怖については人一倍熟知していたのでしょう。チェスタトンの作品、とりわけ本書『ブラウン神父の童心』を読んでいると、黄昏や夜の描写が至るところに出てくることに驚かされます。上で引用した「青い十字架」はブラウン神父が初登場する記念すべき作品ですが、途中まではおかしな行動をする凸凹コンビの珍道中的趣があるのに、クライマックスでは「孔雀のような絵を帯びた空が頭上に完全な丸天井を描き、黒味を増す立木と濃い菫色の遠景に接するところでは、空は金色に映えていた。ほんのりと明るい緑色の空にも、はや、水晶のような星がひとつふたつ、瞬きはじめた。」野原での理性問答となるのです。

表面的な常識しかもたない人々は、夜の世界で予期しない事件に遭遇するととたんに神秘的な解釈に陥ったり、ただ戸惑うばかりとなります。そんな中で、普段は古臭い神様を信奉しているとして「進歩的」な人々からは見下げられている、カトリックのブラウン神父こそが理性を失うことなく本質を見抜き、事件を解決に導く。この逆説こそがブラウン神父シリーズの核心といってもよいでしょう。神による理性こそが暗闇を照らす光となるのです。

また、理性に加えてブラウン神父には多くの人の懺悔を聴いてきたことによる、人間への幅広い理解がありました。そして神父の真の目的は犯人宛ではなく、罪びとの魂を救うことにあります。その後、多くの作家によってヴァリエーションがつくられた、大胆な心理トリックで有名な「見えない男」の終結部は、「雪に蔽われた丘を星空のもとで」殺人犯と何時間も歩くブラウン神父の描写で締めくくられています。謎の解明よりも魂の救済。だからブラウン神父は後期のエラリー・クイーンが直面した苦悩からも無縁でいられるのです。

通常のリアリズムを重視するミステリならば物的証拠を基に帰納的に推理を組み立て、心理的状況を加味して真犯人を特定するところですが、ブラウン神父の場合は、理性による真理から演繹的に犯行、犯人像を推理していくことが多いのが他のミステリと一線を画しています。このため、ブラウン神父の世界はしばしば幻想、ファンタジー小説に大きく接近します。

演繹的構成を示す例として、「折れた剣」交わされる問答を紹介しましょう。
「賢い人間なら小石をどこに隠すかな?」「浜辺でしょう。」
「賢い人間なら樹の葉はどこに隠すかな?」「森の中ですよ。」
有名なやりとりですが、この問答が交わされる舞台の描写はこうです。ゴシック・ロマンスに通じる感覚を見出す人もいるかもしれません。

森では、樹々の千本もの腕が灰色にくすみ、百万本もの指が銀色に輝いていた。石板を思わせる濃い緑青色の空には、氷のかけらのような星が荒涼ときらめき、こんもりとした森におおわれて、住居のまばらなこの一帯は、もろくはげしい霜でこちこちに固まっていた。
(「折れた剣」冒頭部分)

こうした夢幻的世界、おとぎの国における探偵はなるほど、神による理性を武器にするほかないでしょう。これがなくなるとこの小説世界はたちまちカフカ的不条理の世界になるのです。チェスタトンから神を取り除くとカフカになる。他ならぬブラウン神父もこのことを深く理解していました。最後に彼の言葉を紹介しましょう。

「お伽の国に入るのは例外なくいけないことだとは言ってませんよ。そうするのは例外なく危険だと言ったまでです。」(「サラディン公の罪」より)

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