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映画学校での勉強について

 「『ドライブ・マイ・カー』観たんだけどさ、日本人はみんな嘘つき(cheater)なのか?登場人物の行動が時々理解できなくて困った」

カメラマン志望の男友達が冗談半分で私に質問してきた。村上春樹の世界観に慣れ親しんでいる私にとっては「婚姻関係や恋愛関係にある2人がどちらかを裏切る」という状況設定に関してなんの違和感もなかったから、24歳のインド人男性の素朴な質問に新鮮な驚きを覚えた。ちなみに彼はめちゃくちゃ性格がよくて、悪いことを一切しないタイプの素直な人だ。

 今週は日本映画特集で、溝口健二『雨月物語』、小津安二郎『麦秋』、黒澤明『天国と地獄』、勅使河原宏『砂の女』と学内上映が続いたけれど、黒澤明以外を除いて、「どれも「嘘つき」のフレーバーがある」と彼は揶揄していた。確かに『雨月物語』も『砂の女』も、女性への欲情に身を任せた結果、主人公の人生は破綻の方向へと舵を切っている。「日本人は嘘つきばっかなのか!?」と私をからかうその友人の質問に対して、「濱口竜介監督はもっとえげつない映画作ってるよ」と別作品を勧めることはためらわれた。

 さて、今月はなぜか新しい先生が色々やってきた。日本的な感覚からすれば学期はじまりに新しい先生も紹介されると思っていたのだが、学期途中に突然やってきた。その中のある1人の先生の授業が個人的にとても興味深く、一生懸命耳を傾けている。その先生はリアリズムについて延々と講義をするので、彼のことを「リアリズムsir」と心の中で勝手に呼んでいる。映画の作り手でもある先生の映画理論の授業は、長年の疑問を言語的にかつ具体的事例を交えて説明してくれるような授業だ。映画はすべて作り物であるのに、なぜそこにリアリティを感じるのか、役者の感情が自分に迫ってくるのはなぜなのか。私は無意識のうちに10年くらい考え続けていた(気がする)。

  ドライブ・マイ・カーの話にもどる。私はこの映画の、主人公と女運転手が赤い車で夜の道をドライブするシーンがとても好きだ。2人が目を合わせることなく進行方向を見つめながら、サンルーフを全開にしお互いの煙草をつきあげるショットが記憶に焼き付いている。孤独をお互いの身体で埋め合わせるのではなく(そしたら視線は重なり合い、身体は向かい合っているだろう)、ただドライブしながら無意識のうちにお互いの孤独に連帯しあうメタファーのようだ。ただこの一連のシーンが観客の感情を掻き立てるシーンとして機能するには、ここに至るまでの登場人物の人間関係が描かれていなければならないし、主人公の葛藤や衝突からのドライブという一時的な開放へ至るまでの論理的な脚本の流れが必要だということが、映画を学ぶ過程でよくわかってきた。そのような筋道を作り上げるためには忍耐深い訓練が必要だと悟った。そのために大人しく日々映画をみて(眠い)、授業に真面目に出席し(たまに寝ている)、時に理論書を読むというような生活をしている。観客の感情を動かすためには相当な訓練が必要なのだということが薄々わかってきた。というか自分が作るもので自分が心動かされたい。

 人を裏切ったことがあるかないかにせよ、「欲情(desire)」というのは多かれ少なかれ人間の本質である。目の前にあらわれた美しい女に惹かれ、破滅へと向かう物語の中で描かれる登場人物に、私はリアリティを感じてしまう時がある。しかし現実でその欲望と向き合い実践するのはとても危険なことだし、うんざりしている。人間としての私の人生は平和がいい。しかし欲望に目を逸らしていると、己の欲望がどんどん肥大化してくるだろう。その治療として、映画という壮大なフィクションの営みに身を投じている節がある。映画は少なくとも私の人生にとっておそらく必要なのだろう。そして映画を見る人にとって、嘘だらけの世の中から離れ、真実を目撃することは

今年度の勉強のまとめとして、10分程度の短編映画を作らなければならないが、私の中にあるほんのちいさな物語を映画にするプロセスを真剣に楽しもうと考えている。

※ヘッダー画像は『ドライブ・マイ・カー』より

筆者は現在インドの映画学校で留学中のため、記事の購読者が増えれば増えるほど、インドで美味しいコーヒーが飲める仕組みになっております。ドタバタな私の日常が皆様の生活のスパイスになりますように!