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老婆の休日

給料がなくなるという。
少なからずショックだ!
私のパート先での事である。
だが決して倒産するわけではない。
業績はすこぶる好調のようだ。

詳しく言うと、なくなるのは給与明細書である。

これまで毎月給料日の少し前になると、袋に入った明細書が配られていた。
それがなくなり、明細を知りたければ、手持ちのパソコンかスマホで  自主的にIDと暗証番号を打ち込んで調べろというのである。

大げさに言えば、汗水垂らして毎日やっている己の労働の実体がまた遠くに追いやられた感じなのである。
 
なんか腑に落ちないなぁ?

中小企業に勤めていた私の若い頃はまだ 、給料日には袋に現金を入れて渡されていた筈だ。
生々しいといえばそうなのだが、それでも、1ヶ月働いた実感はあった。
薄っぺらい給料袋をしみじみ眺めながら、これが机の上で立つような札束の入ったものにしたいものだ、とよく幻想したものだ。
それがいつしか給料は銀行振り込みになり、給料日の特別感もなくなり、労働の報酬は単なるお金の移動になって久しい。

泥の付いたお札

以前、「北の国から」というドラマの中で田舎から都会に出る息子を送ってもらうために、父親がトラック運転手に泥の付いたお札を渡したシーンがあった。
それは決して裕福ではない父親が懸命に身体を酷使し、泥の付いた手で働いて得たお金だ。
その事を感じた運転手はお金を受け取らなかった。
それを息子に渡し、おまえの宝物にしろと言う。泥の付いたお札には息子を思う父の親心も染み付いていた。
労働の報酬としてのお金のありがたみが実感できない現代社会では、ドラマの中でももはやそんなシーンは生まれないのだろう。


これも以前、上方落語の桂文珍の新作落語に、「老婆の休日」、という演目があった。
時代にフィット出来ずに、傍から見たらちょっと滑稽なご老人を暖かくネタにしたものだが、この演目も時代が進むに連れて変化しているが、はじめの頃には、こんなネタがあった。

休日に公園に来た老婆が、池の鯉に、何かを投げつけている。時折、がま口を開いて、何かを取り出している。取り出したのは50円硬貨で、それを池の中に・・・。ふと見ると、池の畔に立て看板があって、「鯉の餌、50円」

そんな馬鹿な! 普通間違えるか?

と、その時は阿呆みたいに大口を開けて笑ったものだが、私自身も齢を取って今では他人事ではなくなってきている。

政府主導のキャンペーンに乗っかって、私もようやくマイナンバーカードを作った口だが、その特典として、ポイントをくれるというので、電子マネーのアプリをダウンロードした。

確かに便利には違いないが、時代遅れの男を自称する私としてはこれは結構ストレスを感じるツールでもある。

スマホの画面を相手の機械に上手に合わせられなくて、自分の背後に出来た列にテンパリながら四苦八苦する姿は、「老婆の休日」に出てくる登場人物と大差はない。

私たちは一体どこまでも便利さを追求するのだろう?
何か、大事なものを失いながら・・・

私たちの望んだ豊かさはこれではない!

かつて高度経済成長期に悲惨な公害問題を目の当たりにしながら、目覚めた人は、そう叫んだものだ。
だがそうした少数の意見は抹殺されて、現代社会は行きつくところまで来てしまったようだ。

そのうち時代に乗り切れない老人たちの反乱が起きるかもしれない。
 
否!

IT化が進み、管理化された現代社会に、味気なさと置き去りにされたような喪失感を感じるのは、老人に限らず少し目覚めた人なら、何だか違う、と、感じる筈だと信じたい。

休日

私は公園の池のほとりに来て、梅雨の晴れ間、突然思い出したように煌めく魚のうろこの光を眺めながら、そんなことを考えている。




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