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神はサイコロを振らない

夏の夜空にひときわ光彩を放つベガやデネブやアルタイル。

天の川にかかる数々の星たち・・・。

見上げているうちに、平面に思えていた空は、やがて、みるみる奥行きを有して、宇宙の広大さを感じさせてくれる・・・。


忙しい日常にかまけて、日頃は考えない事も、そんな夜なら思いを馳せられるだろう・・・。

自分とは一体何だろう?


そんな時、夜空を見上げてぽつんと佇むちっぽけな自分と、それを取り巻く大きな世界についても考えてみる。

みなさんは、自分と宇宙とが、何処かで繋がっている、というそんな感覚を覚えたことはないだろうか?

私たちの一生は儚く短い。

そんな泡のような存在の、元にあるものが、広大な宇宙の根本原理と同一であるとするならば、それ以上に、わたし自身が宇宙であると考えるならば・・・。
わたしの体や皮膚の細胞の隅々までが、宇宙で満たされている・・・。


自分について考えること、自分を取り巻く世界について知りたいと思うことは、昔から変わらないらしい。

古代インドのウパニシャッドの哲人たちは、大筋で、宇宙原理、宇宙我を、「ブラフマン」と呼び、個人個人に宿ると考えられている気息、生気、自我を、「アートマン」と呼んだ。

その一方で、ウパニシャッドの基本思想は、「万物はブラフマンであり、ブラフマンはアートマンである」とあり、その命題は、「自己と宇宙の同一性の経験」である。

三千年もの昔の哲人たちが、何もおあそびで、そんな議論を重ねたのではない。

宇宙の原理を知ることで、小さな個人のひとりひとりの精神的至福の追求をも成し遂げられると、そう考えたのである。

ある敬愛する人物について語りたい。

もうお気づきかもしれないが、タイトルにある、「神はサイコロを振らない」という言葉は、その人が言ったものである。

その人物は、言わすもがな、アルベルト・アインシュタインである。

1927年、ベルギーのブリュッセルで行われた第五回ソルヴェイ会議に参加したアインシュタインの表情は心なしか冴えない気がする。

集合写真に映る29人の物理学者のうち、最終的に17人がノーベル賞を受賞すという、まさに知性の集まりの中で、文字通り中心人物として座しているにもかかわらず・・・。

その日の議題は「電子と光子」で、あったが、招待状には「このたびの会議では、主に新しい量子力学と、それに関連する問題を議論します」と明記されていたのだ。
この時既に、波立つものを感じていたのかもしれない。

この日の議題になった量子力学は、現代物理学においては、もはや外すことのできない重要なものらしいが、私をはじめ、そうそう一般の人がピンとくるものではない。

そこで、今後の文章を円滑に進めるためにも、文部科学省のホームページから量子力学についての簡単な定義を引用しておく。

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。
物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っている、さらに小さな電子、中性子、陽子といったものが代表選手です。
光を粒子としてみたときの光子やニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子に含まれます。
量子の世界は原子や分子といったナノサイズ、あるいはそれよりも小さな世界です。
このような極めて小さな世界では、私たちの回りにある物理法則、ニュートン力学や電磁気学は通用せず、量子力学、というとても不思議な法則に従っています。


さすが文科省!

その説明で、物理学には精通していなくても、概ね、量子力学が目には見えないミクロの世界に関しての領域であることが判る。

もともと量子については、プランクとアインシュタインが産みの親のようなものだったが、育ての親が違ったのだ。

それがデンマークの物理学者、ニールス・ボーアである。

先述した第五回ソルヴェイ会議にはボーアを初めとして、コペンハーゲン派と呼ばれる優秀な若手の物理学者たちが出席し、アインシュタインと歴史的な論争を繰り広げたのだった。

ソルヴェイ会議に於ける、アインシュタインとボーアの論争について、詳細に語ることは、物理学に精通していない私にはできない。

概ね、アインシュタインが理論としての量子力学の不完全性を説き、ボーアをはじめとする、コペンハーゲン派の学者がそれに応えるというふうに進んで行くのだが、この量子力学の論争はあくまで純粋な物理学的理解だけではなく、哲学的要素をも含んでいる。

主にコペンハーゲン派が量子力学において主張するのはハイゼンベルクの言う不確定性原理とボーアの言う相補性である。

ハイゼンベルクは、それまで古典物理学では暗黙の大前提だった、運動する物体は測定されようがされまいが、いつでもはっきりした位置と運動量を持つということを否定した。
たとえば電子は位置と運動量を同時に正確に測定することはできない。
ゆえに電子は位置と運動量の値を同時に持つことはできない。したがって、電子がそれらを同時に持つかのように語ったり、電子が軌跡を持つかのように語ったりすることは無意味である、と主張した。
ハイゼンベルクにとっては、観測と測定の領域を超えたところにある実在の性質に思いを巡らしても意味がなかったのである。

一方で、アインシュタインは、「実在」にこだわった。

見ていないときには、月は存在しないのか?
「神はサイコロを振らない」と同じように、アインシュタインの言葉だが、まさしく、量子力学における実在に関しての理解、曖昧さをを批判したものである。

量子力学の世界ははまさに曖昧な世界である。

その曖昧さが許せない。

量子力学が重要なものだと認識しながらも、自らもそれまで発表し続けてきた、物理的実在についての曖昧さは、アインシュタインはどうしても許容出来なかった。

我々を取り巻く世界、自然の中に、そんな曖昧な世界が存在すると認識する事は、物理学者のみならず私たち自身にも大きな影響を与えるに違いない。

古代インドのウパニシャッドの思想のように、自己と宇宙が繋がっているという思いは、時として私たちに大きな勇気と力を与えてくれるだろう。

それが、真逆の印象で、ミクロの世界ではあるにしても、私たちの世界を形づくるものが、そんな曖昧な予測のつかない覚束ないもので、否、私たち自身もそんな曖昧さで満たされているとすれば、自ずから私たちの心にもそれなりの影響を与え、ひいてはその世界で生命を与えられた私たちの生き方にも大きく関係してくるのだろう。

その後、アインシュタインは、EPR論文を持って量子力学の不完全さを追求し、ボーアは相補性理論でアインシュタインを納得させようとした。
一つ提示されれば、それが破られると言うように、その後もベルの不等式が現れたり、多世界解釈が現れたりとアインシュタインとボーアという稀代の天才の論争は、時を超えても受け継がれて行くのだが、世間でのその有用性とは裏腹に、結論として、今でも量子の世界はまだ明確には解明されていないらしい。



紀元前の昔から続く、真実を知ろうとする、人の営みは大切である。

だが、アインシュタインとボーアの論争を通しても、結局、唯一、わかったことは、わからないことだ、という極めて、東洋的な結論なのかもしれない、と、私には思える。

重要なのは、たとえどんな世界に私たちが生きていようとも、そこで、どう生きるのかだと、そういう帰結になるのだろうか?

ここまで書き連ねてきて、ふと、我に返った。

物理学に精通しているわけでもなく、無名の私がこの投稿をしようとしたきっかけは、アインシュタインとボーアがほぼ同時期に日本を訪れているという事実を知ったからである。

私にはそのことがとても意味のあることに思える。

ふたりがその時、どう感じたのか?どう振舞ったのか?

いみじくもその後、原子爆弾という恐ろしい兵器がうまれ、それが広島、長崎に投下され、多くの人の犠牲があったこと。

人を取り巻く世界を知りたい、明らかにしたい、そういう真摯な思いで発展していった学問にしても、悪用されれば、逆に人類を滅ぼすことになる事実。

アインシュタインは、自分が考えたものが、そんな風に使われるのなら、科学者ではなく、漁師にでもなりたかった、とそう述べた。

それらは、ますます混迷を深める現代において、極めて今日的な問題に思えたからである。

今回は、くだくだと長い文になってしまったが、私の本当に提示してみたかったものは、別のところにあった。

それらを、続編として、次の投稿で、書いてみたい・・・。




































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