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憧れのあの人

今回のツーリングでは大きな街には寄らないつもりだったけど、函館は、たまたま、泊まるのに都合のいいところにあった。大きな街には寄らないつもりだったけど、無理に避けることもない。せっかく泊まるなら、おいしいものくらいは食べたかった。マップルを開いたら、朝市の特集があった。一番有名なのは、きくよ食堂の三食巴丼。きくよ食堂は、朝5時からやっているので、ツーリングの出発を遅らせなくてもよくて、都合がよかった。あと、マップルには、函館は、イカが有名だと書いてあった。活けイカの刺身の写真が、大きく載っていた。他にも、ゴロ焼き、という、味付けしたイカのワタを、身と一緒に焼いたものも、載っていた。きくよ食堂の近くに、夕食に、イカが食べられる居酒屋があった。これで、夕食も決まった。
 
函館のホテルに着いたのは、4時過ぎだった。チェックインするときに、コロナの影響で、きくよ食堂が閉まっている、ということがないか、念のため、ホテルの人に聞いてみた。ホテルの人は、そういう話は特に聞いてない、と答えてくれた。そして、みんな、きくよさんに行きますね、と言った。
グーグルマップで夕食の店の場所を調べてから、ホテルを出た。店に着いたのは、6時前だった。かなり混んでいた。一名、と告げると、カウンターの端っこに案内された。着席して、メニューを手に取った。ぱらぱらとめくって、活けイカと、ゴロ焼きがあるのを確認した。メニューを戻して、生ビールと、その二つを注文した。
先に、イカのゴロ焼きが出てきた。熱い鉄板の上に、イカ焼きが乗っていた。店の人が、鉄板の上のイカに、ゴロをかけた。ジューッ、という音がした。いい匂いの煙が上がった。店の人は、熱いのでお気を付けください、と言って、皿をテーブルに置いた。熱いのでお気をつけながら、皿の向きを変えて、写真を撮ろうとしたら、活けイカの刺身が出てきた。大きな四角い皿の上に、細切りにした半透明のイカの刺身と、酢の物みたいなのと、目からゲソの部分がそのままになったイカが乗っていた。皿を運んできてくれた高校生のバイトの女の子が、ゲソの部分は、刺身か、炭焼きか、天ぷらにできます、と言った。決まったらお呼びください、と言われたので、その場で、天ぷらを頼んだ。せっかく出てきたイカ君は、天ぷらにするために、直ちに引き上げられることになった。バイトの女の子が、イカを引き上げるための、皿を持っていた。イカの、目の下のあたりを、箸でつかんで、持ち上げた。イカの足が、力なく動いた。さすが活けイカ。こんなになってもまだ動くくらいに、新鮮。でも、おいしそう、というよりは、グロかった。こんなになってまで、見世物にされているイカ君が、かわいそうな気もした。
まずは、活けイカの刺身から、いただくことにした。細切りにされた半透明の身は、薄くて、上品だった。二切れつまんで、醤油を少しつけて、食べた。第一の感想は、ぬるい、だった。水槽の中のイカをそのまま刺身にするのだから、当然かもしれないけれど、ぬるかった。第二の感想は、味がない、だった。見た目の通りに、上品な味なのかもしれないけれど、上品というより、味がしなかった。次は、三切れつまんでみたけれど、ぬるくて、味がしないのは、一緒だった。
ゴロ焼きは、期待通りの味だった。しょっぱくて、苦くて、味が濃くて、ビールに最高にマッチした。うまい。少し焦げて、鉄板にくっついたゴロを、イカの身で、すくうようにして食べた。そしてビール。うまい。
活けイカに戻るきっかけを失って、ゴロ焼きを食べていると、ゲソの天ぷらが出てきた。さっきのあの子が、熱々で、カリッと揚がっていた。じわじわ動いていた時よりも、はるかにうまそうだった。そして、実際、うまかった。そういうことなら、大きな四角い皿の上にある、半透明で、ぬるくて、味のしないアレも、天ぷらにしてほしくなった。カウンターの奥に立ててあるメニューに、手を延ばそうとした。活けイカの値段が、頭をよぎった。手を止めた。
高価なわりに、パッとしない活けイカは、食べるときの扱いにも困った。さっさと片づけてなかったことにするか、高かったんだから、大事に少しずつ食べるか。ゴロ焼きと、ゲソの天ぷらだけだったら、機嫌よくビールが飲めるのに。
みんな、きくよさんに行きますね、という、ホテルの人の言葉を思い出した。同時に、彼のことも思い出した。あの、幸福に空腹を満たす時、つかの間、自分勝手で、自由になる人。自分の直感が信じられず、マップルのいうとおりに、間違いのない王道のメニューにしがみつく私の、永遠の憧れであると同時に、あれは、現実めいた幻に違いない、と、直視しないようにしている、あの人。ゴロ~、ゴロ~、イッノッガシッラ、フゥ~。そんな曲が聞こえた気がした。
マップルに載っている王道のメニューをなぞるのは、人気があるから、という理由だけで、とりあえず、有名な観光地に行ってみるのと、とても似ている。それが食べたいのかどうかを考えずに、ただ食べるだけ。急に、自分のやっていることが、機械的で、つまらなく思えた。もう少し、自分のことを信じてもいいんじゃないか。名物だから、という理由だけで食べて、残念な気持ちになるくらいなら、自分の食べたいものを食べて、残念な気持ちになる方がマシだ。直観力のない私には縁のない世界に住む人だった彼に向かって、一歩踏み出す時が来たのか。まだ、3話くらいしか見てないけど。
ビールが程よくしみ込んだ頭で、そんなことを考えながら、ゲソの天ぷらをモグモグと食べた。
 
次の日、5時前に起きた。ツーリング初日の、マルトマ食堂の入口の行列を思い出した。素早く着替えて、直ちに、きくよ食堂に向かった。朝市の店は、どこも、開店準備で忙しそうだった。きくよ食堂の入口が見えた。他の客は、まだ一人も来ていなかった。入口から、中の様子をうかがうと、店員が出てきた。
「すみません。コロナ対策で、6時からになります」
「えー」
思ったより大きな声が出た。きくよ食堂のホームページには、大きく、5時から、と書いてあったので、まったく疑ってなかった。残念だけど、仕方がない。コロナ禍の最中にフラフラと旅行しているのだから、こういうこともある。5時に開いている店は、他にはないから、朝食は、近くのコンビニに買いに行くしかなかった。それしかないのは、頭では理解できるけど、それは、そんなに簡単な話じゃなかった。もう、頭の中も、口の中も、胃の中も、甘いホタテと、プチプチのいくらと、濃厚なウニを食べるつもりになっていた。
失意のまま、コンビニに向かって歩いた。通りがかりの店の人に、お兄さんお土産買わない?と、声をかけられた。お土産よりも、食事がしたい、と、答えた。返事は、食事の準備は、まだ30分くらいかかる、だった。知ってる。マップルにも、開店は6時から、って書いてあった。その店を通り過ぎて、3軒目の店の前を通ったときに、お兄さん食事?と、声をかけられた。立ち止まると、店の看板を出したばかりのお兄さんが、こっちを見ていた。お兄さんは、うちはすぐに食事出せますよ、と言った。店の看板には、海鮮丼の写真があった。マップルに載ってないような店は、高いわりにおいしくないんじゃないか。一瞬、そう思った。そんなふうに考えるのが、よくないんだよ。幸福に空腹を満たすなら、今だ。

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