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スピ話 -5- 自覚が深まったレベル

前回で書いたペルソナ/シャドウのレベルは、意識レベルとしては一番浅いレベルです。
ここからは、深まっていく意識レベルについて、順に書いてみようと思います。

意識状態の深度マップ

☆ 哲学的帯域 ☆

ペルソナ/シャドウのレベルから深まって、シャドウを部分的に自覚するようになった辺りの状態は「哲学的帯域」と呼ばれています。自覚が多少深まったとでも言えるでしょうか。
ここでのアイデンティティーは、古典的な哲学が認識している「私」の概念が当てはまる領域です。デカルトやカントが思索した中に現れる「私」は、ペルソナだけでなく「私」を突き動かす衝動の存在を感じており、シャドウをある程度は自覚しています。
理性的な思索(分別による思考)を続けるときは、だいたいこの帯域の意識状態でしょう。

☆ 自我のレベル ☆

シャドウを全て自覚して「私」と感じるようになると、アイデンティティーは「自我(ego)」そのものになります。
自我は自覚できていますが、「自己(self)」の全域を認識できてはいないですから、無意識(自覚できていない意識領域)が無くなった訳ではありません。身体は依然として「私」の外側に感じています。

現代人の殆どは、ペルソナ/シャドウと自我の2つのレベルの間を、行ったり来たりして毎日を過ごしているのではないでしょうか。
常識的な世界認識、あるいは自己認識とでも言えましょうか。

ここまでの、常識的と言えそうな意識状態によって人が自覚する「私」の実感は、殆どの方にとって体験のある、したがって分かり易い感覚と言えるでしょう。


ところで、ご想像の通り、意識の状態はこれだけではなく、さらに深まりがあります。むしろ、「本当の私」を探究する方にとっては、ここからが本題です。

☆ 生物社会的帯域と実存的レベル ☆

自我に同一化していた「私」が、更に身体をも内部に感じ始める領域を、生物社会的帯域と呼んでいます。

更に進んで、自覚している意識と身体を合わせた総体を「私」と感じるのを実存的レベルと呼びます。
実存主義哲学が提唱した「私」の概念に符合するでしょう。自分の手を眺めて「私の手」とは思わない、「これは私だ」と感じる状況です。この感覚に馴染みのある方は、現代では少数派のようです。

☆ 女性は感が良い ☆

どちらかというと、女性の方が男性よりもこの状態を体験されているようです。おそらく女性ならではの子宮にまつわる月ごとの体験や、とりわけ出産の体験は身体感覚が強烈なので、その感覚の当事者であるという体験が、身体を私そのものとして感じるチャンスとなっているのではないかと思います。

☆ 強い感覚ほどわかりやすい ☆

私には、図らずも身体の感覚そのものになった強烈な体験があります。胆石の発作が起きた時でした。
あまりの激痛に耐えかねて、生まれて初めて救急車を呼びました。
駆けつけた救急隊員が「どこが痛いのですか?」と聞いてくるのですが、激痛の中にいる私にとっては、「私は痛みそのもの」という感覚になっていて、「何処が」と言われても答えようがないのです。
息も絶え絶えの私の口から、ようやく出た言葉は
「い、いた、い、んです、、、」
「何処ですか? 何処が痛いんですか?」
「あ、あの、い、いたい、、、いたい、ん、です、、、」

思い出しても笑ってしまうような、会話の噛み合わなさですが、これが実感だったので、ほかに言葉が出なかったんです。そのとき、私は、痛みそのものだったのです。
とはいえ、救急隊の方々は流石に訓練されているのですね。
「見たところ胆石のような症状ですが、そのような診断を受けたことはありますか?」
と、実に適格な判断をされて、
「い、いいえ、、、」ともがく私を病院に運んでくれました。
とまぁ、個人的な話が長くなりましたが、実存的レベルでの実感というのは、強烈な感覚の中で発生し易いとは言えそうです。

これが、痛みなどを伴うことなく、日常的な感覚として定着すると、経験をいつも全身で受け止める積み重ねになるので、ペルソナ/シャドウレベルの場合とは、同じ体験をしても質がかなり違うことになります。
それだけ意識は深まっていて、「私」と認識される範囲も拡がっています。
それでも、このレベルは究極にはほど遠く、まだ先があります。

-つづく-


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