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火球 【エッセイ】

 実家に帰省すると、もうすぐ卒寿を迎える祖父から色々な話を聞く機会がある。

 祖父は今もなお現役で漁師を生業としており、とても含蓄に富んだ人で、気丈な佇まいからは人生の重厚な年輪が垣間見える。
宛ら暖炉の前でロッキングチェアに凭れながら煙管を燻らせている絵本の中の白髭翁だ。

 溺れた者を助けて警察から表彰されたことが何度もあるし、TVに出演したことも数知れず、昔は相当な苦労もしたのだろうが祖父はその様な自慢話や苦労話は決してしない。

 父曰く普段は職人気質で寡黙であり、昔は相当恐かったらしいのだが、私が訪ねると人が変わった様に饒舌になるらしい。
故に私は徐に、しかししっかりとした口調で時々ユーモアを交えながら楽しげに話す祖父の姿しか知らない。
確かに多弁だが決して冗長ではなく、闊達である様や機知に富んだ言い回しが言葉数の軽薄さを相殺していてなんとも不思議な感覚になる。

 そんな祖父からは戦争の話、日本中をバイクで旅した話、深夜の森で友人と出くわした話、漁で網にかかった溺死体の話、線路の上を青白くちらちらと燃える人の血液の話、木からぶら下がる首吊りの死体を発見した話、漁場の長屋でカップルの心中死体があった話など、本当に色々な話を聞いた。

 IT化が急速に発展する現在において、多くの現代人のライフワークは鉄筋コンクリート製の箱の中で完結し、人の死と対峙することがなくなった。よって葬式は日常とは切り離された厳かで特別なものとなり、死をある種の「穢れ」として遠ざけるようになった。

 自然と共に生きてきた祖父にとって死は身近な物なのだろう。だからこそその重みを人一倍理解しているのかもしれない。元来死は生と共にある自然であり、全ての人間はいつか必ずそこに行き着くことを理解しているからこそ、明日の献立を話すかの如く気楽で、かつ軽快な語り口なのだろう。

 色々な話をする中で、一頻り盛り上がると決まって祖父は訥々とこう口火を切るのであった
「本当に色々なものを見てきたけどたった一つだけ、未だに理解出来ない不思議な事があるんだよ。」
遠い目で、だが他の話とは全く違う熱量で
「今でも昨日のことの様にはっきりと思い出せる。あれは――」

 その日、祖父は一人夜漁に出ていた。
風と波の音だけが耳を伝うはずの真夜中の海上。
しかしそれに混じって微かに遠くから「ゴォー…!」と、飛行機とは全く別の、兎に角普通に生きていたら聞くはずもない音が迫ってくるのに気がついた。
驚いて空に目をやると、異様な低音を轟かせながら逢魔時の西の地平線を下る太陽のような凄まじいオレンジ色の発光体が北の夜空を南へと、文字通り一瞬にして"昼"に染め上げていったらしい。
それはやがてゆっくりと頭上を通過して消えていった。
夜が静けさを取り戻して暫く経った後も、狐につままれたかの様に呆気に取られていた。恐怖よりも美しいという思いが強かったほどらしい。
「まるで1日を早送りで再生したみたいだったなぁ。」
と笑う。

 祖父は「あれは絶対にUFOだ!」などと短絡的に結論付けたりしない。
何か分からないけど自然の中で美しいものを見た。その事実だけが確かであり、祖父の中で分からないものは素直に分からないのままなのだ。
私はそれでいいと思うし、それがとても美しいと思う。

 「人生、長く生きていれば本当に色々な事が起こるんだよ。でも起きる事の大半はね、大抵同じような事の繰り返しとか、分かってしまうようなことなんだ。そんな中でたまぁにこういう事もあるんだな。」

 合理性や目的意識、問題解決力などが絶対視される社会。それは個としての生命を存続させる為には確かに必要な力なのかもしれないが、「生きる」上でこのような人生に溢れる余情を味わう心も失ってはいけないと感じる。

私はそんな祖父に敬慕の念を抱いている。

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