ハナミズキの頃

我が家の近くにあるオフィスと商業施設の複合ビルには良く手入れされた花壇や庭が点在していて、娘の園バスの送り迎えで毎日花を愛でたり、季節の移ろいを感じることができていたけれど、この春から園バスのルートが変わったこともあり、日々の生活リズムが変わってしまった。

先週、久しぶりに時間を見つけて庭に足を踏み入れたら、そこは楽園になっていた。
こんなご時世だからか、施設管理のコストも削減されてしまったのか、花壇も庭も昨年より人の手がかかっておらず、その手入れの不行き届きが逆に野薔薇の生垣の好き放題な隆盛を生み、色とりどりの花たちの自由気ままなキャンバスになったかのようだった。

自然は皮肉なことに、自由にさせておいた方が美しく輝きを増すもののようだ。

中庭のハナミズキ。
どうしても、歌のイメージがあるからか、見ると先に逝ってしまった人たちを思い出す。

10年前の5月、私は父の実家にいた。
父の実家は海岸から2-3㎞内陸に入ったところだったけれど、それでも私の身長ほどまで津波が押し寄せた。
既に数年前から、祖母は老健ホームへ入っていて無人だったけれど、その無人の実家の後片付けには数ヶ月を要した。

一度開通した新幹線が余震でまた不通になり、またライフラインが途絶え、物資の不足する被災地へ行くことは却って迷惑だとタイミングを見計らううちに時は過ぎ、私が実家へ戻ったのは地震から1ヶ月半を過ぎた頃だった。

詳しいことはまた別なnoteでいつか…その帰省中に私が感じたことだけ、今回は書いておこうと思う。
父の実家は、父がその年明けに肺炎を患って長期入院後だったということもあり、両親自身も(被害は他に比べたら酷くはなかったけれど)被災者であり、無人であることから優先順位が二の次だったという事情から、私が帰省した時点でも半分程しか片付けが進んでいなかった。

5月の快晴の空の下、私と夫は両親と共にそこへ赴き、3日間に渡って片付けを手伝った。
父母は私達の為に安全長靴や作業着、防塵マスクなどを用意してくれており、車を降りる前にマスクを付けたけれど、その一瞬の隙間から嗅いだあの被災地の臭いは10年経った今もありありと思い出せる。
海水と、油と、色々な物が混じり合った、何とも表現がし難い独特の臭い。

父の実家は、庭に10数センチのヘドロ(と言って良いか分からないのだけれど)が溜まっており、その堆積物を土嚢袋へ入れてゆくのだが、シャベルを入れるとそのひと掬いごとに、誰かの“物“が出て来る。

服、眼鏡、靴、文房具、食器。
それらを目にするたび、持ち主は無事だったのだろうか?と考える。
泥に塗れたそれは、でも確かに“生“の痕跡達だった。

特に身に付けるものを見つける度、この物の持ち主が無事で生き延びていて欲しい、と願った。
「そうに違いない、これは家にあって流されただけだ。本人は別なところで、きっと生きている」
そう思わなければ、押し寄せてくる死の匂いと恐怖に心が潰されそうだった。

空はどこまでも青く快晴だった。
けれど黙々と手を動かしながら、私は“もしまた余震が来たら“と何度も考えていた。

また津波が来たら?
私たちは押し流されて死ぬのかもしれない。
大きな地震があれで終わりかなんて、誰にも分からない。
次の災害が、いまこの瞬間に襲いかかって来るかもしれないのだ。

早く家に帰りたい、と思った。

空の青さと対照的に、辺りはまだ一面、灰色と茶色の世界だった。
あんなに手入れされていた祖母の庭の木は、全て塩水に浸かって立ち枯れをおこし、鮮やかな花の色ひとつ見当たらなかった。


あれから、5月の晴れた空を見上げるたび、私はあの時のにおいと、訳もなく不安だった気持ちを思い出す。
せめて、私が拾い上げた物たちの名前も知らない持ち主が、どこかで生きて、新しい生活を送っていて欲しいと、時おり勝手な祈りを捧げている。


2月に18歳を迎えていた、実家の犬が逝った。
ここ数年は目が見えなくなり、耳も遠くなり、年明けからは要介護で、父の入院に伴い私が帰省したのも彼女の面倒を看る為だった。
近い将来いつかは来ると覚悟していた別れだけれど、やはり寂寥感は募る。

先日みたハナミズキを思い出しながら、350km離れた実家に向けて彼女が安らかで眠れるようにと祈る。
5月は私にとって、どこか少し特別な、別れを感じる月なのかもしれない。

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