手離す

年末に纏めておいた、もう読まない本をようやく手離した。

その足で行けていなかった初詣のために、少し離れたお不動様へ。
お不動様の縁日は毎月28日。
28日生まれの私は昔からご縁を感じていて、ご本尊が不動明王や大日如来(不動明王は大日如来の化身なので)のお寺が通り道にあると、出来る限り参拝することにしている。

学生の頃は、バイト代が貯まれば京都へ行くという事を繰り返していたけれど、その頃も毎回通ったのが青蓮院(しょうれんいん)。
そこの青不動様と、静かな池の庭を眺めるのが好きだった。

来月半ば、有休を消化しておきたいので、どこかへ行こうとあれこれ考えている。
どこも決め手に欠けていて予約まで進まず、今朝まで弾丸でSF行っちゃう?!とポチりかけていた。
京都はもう色々と行ったから、路地を散歩する以外に行きたいところもないし、と行き先から除外していたけれど、10数年ぶりに青蓮院に行くのも良いかな、と俄かに“久しぶりに京都行きたい“気分が復活してきて、SFを急いでポチらなくて良かったかも?なんて。
まだ数日悩むと思うけれど。


今日行ったお不動様は、昔独り暮らしをしていたところの近く。
そこそこ近いのになかなか足が向かなくて、久しぶりの参拝。
普段の参拝時は引かないけれど、年初だけは運試しに御神籤を引く慣習なので、引いてみる。

『中吉』
可も無く不可も無く、というところ。
でも(画像からははみ出てしまってるけど)、「自己を抑えよ」と書いてあった項目があって、うわー!見透かされた感じ!と勝手に怖くなった。

何かを手離すことは、割と得意な方だと思う。
心の整理がつくまでそれなりに時間は使うけれど、そこから先はドライ過ぎるほどドライになれる。
物にもも、想いにも。

何かに執着していたり、拘っている時は周りが見えていない事が多いと思う。
どうしても手に入れたい物も、冷静に見るとそんなに必要がなかったり。
自分自身が求めるレベルに達していないと感じる時は、コンプレックスや自分のウィークポイントが邪魔をしていることが殆ど。

それらに気付いて、客観的に自分を見つめた時に、驚くほどあっさり“手離す“と“捨てる“が出来る瞬間が来る。
そのタイミングを間違えたり、客観的になりきれていないと、手離してはいけないものを手離そうとしたり、手離すべきものをいつまでも手元に置いてしまったりする。

年齢を重ねて経験も積み重ねたせいか、執着も拘りも少なくなってきたと思うし、気づいてから客観視するスピードも上がったと思う。
手離すもの、絶対に失いたくないものの選り分けも。

それでも先日、感情的にシャッターを下ろしてシャットアウトしそうになって、反省した。
失いたくないものを、自ら手離すところだった。

「自己を抑える」
正にその通り、自戒を込めて。

表層的にフラットに、クールに見えても、内面もそうだとは限らない。
努めて冷静に、客観的に。
そして、要らないものは手離してシンプルに。


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