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名作にくらいつけ! 安部公房「砂の女」(3) ~比喩、不可知なものに輪郭を(弐)~

(弐は、1500字程度)


 物語世界とは、書き手と読み手との相互作用で成り立っている。
 書き手は一つの世界を提出する。読み手は、テクストを介して書き手が創り出した世界を、出来得る限りそのまま自らの内に取り込む具合に努め、その後、その世界がどのようなものであるか、改めてその未踏の世界を味わおうとする。

 日常生活における情報の伝達と同じく、ここでも人は、情報の共有、あるいは世界の共有を求めているのだ。

 であれば、書き手が、上質な物語世界を描き出そうとするのは、とても自然なことだ。書き手が出来ることと言えば、素晴らしいテクストを作り上げることくらいのことしかなく、成熟した読者を育てていくことは、彼らの仕事の範疇に含まれてはいない。

 最後は読者を信じるしかないのだ。自分の創り上げた世界を受け入れてくれる読者が、どこかにいると、信じる以外にない。しかし、仮にそういう読者がどこかにいたとして、自分のテクストの出来が不十分では、始まらない。世界を共有できた時に、上質の世界を手渡せるよう、磨きに磨きをかける以外にないのだ。

 そして、その共有の為の一つの手段、あるいは物語世界に磨きをかける一つの手段として、比喩がある。

 「砂の女」では、作中に、数え切れぬほどの比喩的表現が出てくる。その数は、他の優れた作家の作品と比べても、明らかに群を抜いている。数だけの問題ではない。表現された比喩の一つ一つが、他の作家のものと比べて、明らかに際立っているのだ。比喩表現の、正確さ、豊かさ、イメージを喚起する力の強さは、「砂の女」という作品を特徴づける、大きな要素のうちの一つと言っても全く過言ではない。

 あまりにたくさんの比喩が作中で表現されているため、どこから始めればいいのかもわからないくらいなのだが、あえてはじめに言っておくと、作中において、一口に比喩とは言っても、大きく分けて三種類の比喩が使われていると、私自身は考えている。

 一つ目に、実体のあるものを実体のあるもので例える、というやり方が挙げられる。
 これは割と一般的な表現方法だと思われる。例えば、空に浮かぶ雲の形を生き物の姿に喩えて伝えるという場合などに、このパターンがあてはまる。近代の小説、特に自然主義文学などでは頻繁に見受けられるものだが、時代や言語に拘わらず、この手の比喩はあらゆる種類のテクストで見かけることが出来るように思う。おそらく、最も基本的な比喩の在り方なのではないだろうか。

 この表現方法を、安部公房が味付けとして使うと、以下のようになる。

 ・・・ロープをはずすさえ、もどかしげに、いきなり顔ごとつっこみ、ポンプになって体を波打たせる。・・・こんどは女が、バケツをかかえこむ番だ。女も負けずに、全身ゴムの弁になったような音をたて、たちまち中身は、半分に減ってしまう。

安部公房 「砂の女」 新潮文庫 165~166ページ

 砂にまみれながらも水を飲むことが出来ず、渇きで極限にまで陥った後に、この表現が現れる。たかが水を飲むという行為に、比喩一つでここまでの切迫感と凄みを与えることができるわけだから、やはり秀でていると言わざるを得ない。
 自らの体がポンプになって波打ち、その体からゴムの弁の間の抜けた音を聞く。普通なら自分の体を気遣い心配になるところなのだろうが、そんなことよりまず喉を潤す方が先なのだ。
 この比喩を通して我々は、二木や女の置かれた状況のいかなるかを味わうことになり、そのことを通して、この小説世界の輪郭線をまた一つひきなおすことになるのだ。


(つづく)


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