リアクションがあるというのはうれしいものですね。
しばらく止まったいたnoteにこうして向き合っています。
また書きたくなったのは,ツイッターでの刺激からの「書きたい!」という心の底からの欲求を素直に受け入れた結果です。
今日も,心に浮かんだ欲求を言葉に翻訳していきます。
▼私はこんなに頑張ったのに…頑張るのは誰のため?
私は中学校教員で,現在1年生を担任している。
実は昨年訳あって,年度途中の2学期から3年生の担任を持つことになった。
実に6年ぶりの担任。
もう担任することはないのだろうなあ。
と思っていただけに,身の引き締まる思い。
久々の所見下記,受験指導,調査書作成と担任業務の忙しさを思い出した。
しかし,それと同時に
「やっぱり担任はいいなあ」
としみじみ思った。
誰かの役に立っている!
その感覚が直に伝わるのだ。
もちろん,学校は全職員が生徒に関わっている。それによって教育活動は成り立っているのは言うまでもない。
しかし,生徒のもっとも近くに立ち,ある時は母親のようにやさしく(厳しく?)ある時は父親のように厳しく(甘く?)そしてある時は,良き兄貴(姉御)として接する。
トータルに言えば,学級担任は一人何役もこなす親のような存在だ。
いろいろな事に神経を使うが,感動も多い。
だから,「担任はいいなあ」と思うのだ。
この感情があるから「頑張れる」のだ。
生徒のために頑張る→生徒から感動を受け取る→心が満たされる→生徒のために頑張ろう!
こんなループの中にいると教師冥利につきる。
ところが,いつもそういうループにいられるかというとそうとも言えない。
負のループに陥った経験の記事はこちら
生徒のために頑張る→生徒や保護者(場合によっては同僚)からネガティブな反応を受け取る→どんどん心が消耗する→自分は誰のために何をやっているのだろう??
頑張ることが無意味に思えてしまうのだ。
ここでもう一度考えてみよう。
自分はいったい誰のために頑張っているのか?
普通に考えれば,それは生徒のためだ。
それでいい!そこを突き詰めろ!でもそこを頑張り過ぎると反動も大きいのだ。
では,手を抜けと?
このサラリーマン教師め!それでも聖職者(死語?)か!
▼頑張らない頑張り それは余白を残すこと ゆとり
私はこんなに一生懸命やっているのに,なぜあなたはそうなの!!
人がが腹を立てたり,落ち込んだりする時の多くは
「自分はこんなに頑張っているのに相手が変わらない!」とか
「自分はこんなに頑張っているのに,周りは理解してくれない」
という心理ではないだろうか。
ここが頑張ることの怖いところなのだ。
そもそも誰かのために頑張ってはダメなのだ。
では怠けろと?この不適格教員め!
落ち着いて話をしよう。
子ども達を育てるのが私たち教員の仕事。
であれば,育つ環境を淡々と整備し続けましょ。ということ。
生徒が目を輝かせて,喜んで受けられる授業を創りましょ。
生徒が安心して過ごせる学級風土を育てましょ。
生徒が感動できる行事を仕組んでいきましょ。
この環境作りに集中する。ただし,80%ぐらいの力で。
残りの20%は良い意味でサボる。余白を残すのです。
何故余白を残すのか?
余白は「ゆとり」であり「伸びしろ」だからです。
このゆとりがあることで,自分の考え方だけに固執することなく,他者の考えを柔軟に受け入れたり,生徒の反応が例えネガティブなものであっても,謙虚に受け取ることができるのです。
その柔軟な対応(軌道修)が,結果として成果につながるのです。
成果とは,「生徒が生き生きと学べる学校」「生徒が互いに学び高め合える学校」です。その結果として,多くの感動を受け取ることにも繋がるのです。
生徒にも私たちにも余白があることで,余計な期待を持たずにありのままに事を観ることができるから,そのような結果となるのです。
▼終わりに
今日も熱く語ってしまいました。(^_^;)
今週はテスト前で部活もない。(テストも作成済み)面談も終了。
心にゆとりがあるから,表現したくなっているようです。
淡々と心の中にあるものを翻訳してみました。
最後まで読んでくださりありがとうございました!!
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